牛たちの太平洋戦争

 先日、竹田恒泰先生は講演の中で「先の戦争は何度か日本が勝利をおさめる局面があった」と言われた。
 もちろん日支事変は全域で勝っているし、太平洋地域においても前半戦は連戦連勝だった。竹田先生の言っているのはそういった局地戦のことではない。その判断を誤らなければ「日本が太平洋戦争そのものを勝ちに導ける戦いがあった」と言っている。
 残念ながら、勝っているにも関わらず踏み込みが甘かったり、いくつかの勝てる局地戦で、優柔不断な判断しかできずにポロポロと星を取りこぼし、制空権・制海権を奪取されて、最終的にポツダム宣言の受諾にいたる。
 真珠湾でもっと違う作戦をとり、ミッドウエーで勝利を収めていれば、局面はかなり違っていただろう。日本は欧米に対して有利な外交交渉を展開することができ、1945年以降の世界情勢は大きく変化していたことは想像に難くない。
 そのことは山本五十六や一部の有能な将官には共有された考え方だった。日本と欧米との戦力差、国力の違いを念頭におけば、戦争の早い段階で乾坤一擲の戦いを挑み、そこで圧倒的な勝利をおさめる。それを材料に外交の場で日本の主張を説き、日本包囲網を解いていく。そんな目論見だった。
 ところがどう考えても、日本海軍の動きが鈍かった。なぜだろう。それを理解するのにピッタリな本があった。
 浅見雅男『華族誕生』(中公文庫)である。内容は、明治以降、華族制度が成立し、旧摂関家、徳川家、琉球藩王、旧国主・藩主などから叙爵した。これらは維新前から公卿、諸侯だった家である。公候伯子男の5つの爵位が用意された。この序列は公が最も高く男爵は末端華族ということになる。それにしても華族であり、平民とは隔絶した存在だった。というよなことが書いてある。
 さて、平民の中に学業優秀で健全な体躯をもった上昇志向の強い人物がいたとしよう。しかし平民は平民である。華族にはなれない。だが、確実に華族の一員になる登竜門があった。軍人である。軍の中で出世し、幾つかの輝かしい戦歴を上げれば男爵になれる。そんな人参が目の前にぶら下がっているのである。華族になりたいという強烈な上昇志向を持つ人間は少なくなかった、と浅見氏は言っている。
「ある程度の戦績さえ残せれば、あえて火中の栗を拾うまでもない。命を削るのは兵卒どもでいい。自分のような間もなく華族に列せられる上等な人物は生き残ることがお国のためだ」
 おおかたのエリート軍人はそう思っていた。だから南雲忠一中将は、真珠湾を占領しようとはしなかったし、その他の海軍将官も、手柄になることだけ一所懸命になり、戦略そのものを考えなかった。海軍ばかりではない、陸軍も含めて、位の高い将軍たちが、若い士官たちのような勢いと柔軟な思考を持っていれば、おそらく日本の敗戦はもっと違った形になっていただろう。

 吉村昭『零式戦闘機』(新潮文庫)の最初のページにこんな文章がある。
《……三菱重工業株式会社名古屋航空機製作所の門から、シートで厳重におおわれた大きな荷を積んだ二台の牛車が静かにひき出された。》
 宮崎駿の『風立ちぬ』をご覧になられた方はピンときたと思うが、名古屋の工場から岐阜は各務原の飛行場に零戦を運んでいく場面である。吉村さんの作品には、この名古屋―各務原の輸送の苦労も詳細に記されている。ただ、牛で運ぶのは、必ずしも日本の後進性を表したものではなかった。日本ならではの、繊細な機体を丁寧に運ぶための方法だったのである。
 名古屋の工場から、各務原の飛行場まで48km、時間にして24時間を費やす。夜を徹しての強行軍となる。戦争も末期になると軍からの発注は多くなり、納品もつねに催促をされる状態となる。だから、名古屋―各務原の輸送もその頻度が増えてくる。しかし、運搬をする牛にも限界がある。闇で購入していた飼料も滞りがちになり、疲れ切った牛の中には使い物にならず廃牛になるものも出てきた。開戦時に50頭いた牛がいつの間にか30頭に減り、残った牛もやせ細ってきた。それでも生産機数は増えるばかりで牛たちの労役は厳しさを増すばかりだった……。
 ということで、『風立ちぬ』に登場する牛はのんびりと零戦を曳いているように見えますが、ある意味、日本軍の無能な高級将官よりも仕事をしていたんですな。ウッシッシ。