曽野さんの愚痴話

 曽野綾子さんが『新潮45』の11月号にいいことを書かれていた。「ある日韓関係」という題の文章である。読んでいる人もいると思うけれど、読んでない人も多いと思うので、少し引きたい。
《そもそもほぼ七十年近くも前になることを持ち出して、その非をなじるとか、金銭的補償を要求するとかいうことは、もしこれが個人の行為だったらまともな人間のすることではない》
 さすが曽野さん、ワシャがもやもやと思っていたことをずばり指摘される。こういう方がご健在なので、ワシャのような阿呆も安心して日本人をしていられる。
 曽野さん、国と国の関係を、知人の分類になぞらえて見事に書いている。
《私は八十年間に様々な人にあった。長く生きた利点はまさにそのことにあった。》と前置きをして、曽野さんが、その人生で会った人の60%を好きになったと言われる。6割の知人に好意的というのは曽野さんがレベルの高い人格者であることの証明だろう。ワシャなんかとてもじゃないけれどそんなにはいない。おっと話を進める。
 そして35%の人は、自分には縁のない人たちだったと言われる。正確には「性格に縁がなかった」ということらしい。
《決して悪い人ではなかったが、その人たちは権威主義者か、思想か行動においてささやかな勇気の片鱗も持ち合わさない人たちだった。この二つの性格に、私は全く魅力を感じなかったのである》
 前者は、簡単に言えば、人の価値を学歴や肩書きによってしか見られない人ということ。上にこびへつらい、下をないがしろにして踏み付けにする。世間によくいるタイプですわ。
 後者は、そのままですよね。人間は弱いけれど、ここぞという場面でほんの少しの勇気が必要なときがある。それが出せるか出せないかがその人の魅力の大きな分かれ目になる。
 残りの5%には、人格者の曽野さんも厳しい。他人に対して「謝れ!土下座をしろ!」と言える人間、人の心理のわからない無神経な輩が大嫌いだと言われる。いやいや、人格高潔な曽野さんは「大嫌い」などと品の悪い言葉は使わない。
「心ヒソカに嫌悪し侮辱して、すぐに遠ざかった」のだそうな。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131022-00000012-jct-soci
 こんな連中は、曽野さんの視野の中にはおそらく入ってこないだろうが、接触があったとしても速攻で遠ざかるんでしょうね。

 曽野さんのようにフリーで働いておられる方は「遠ざかる」ことが比較的しやすい。だが、これが会社勤めだとそうもいかない。ここが宮仕えのつれえところだ。
 繰り返すが、曽野さんは、そんな瑣末なことを言っておられるわけではない。この文章の題からも解るように国家と国家とのことを言っている。

 話を続ける。
《七十年も前のことを謝れというのもおかしなことだが、七十年も経ってから金銭的補償をせよというなら、もっとおかしい。これはもう金目当ての行為だという他はない。》
 声高に「謝罪」を叫ぶ隣人に痛烈なペンを食らわせた後、曽野さんは、長年にわたる韓国のある癩病患者施設との素晴らしい交流を話してくれる。これがあるから、自信をもって「七十年前の謝罪」について真っ向から否定できるのだと思う。ぜひ、曽野さんのいい話を『新潮45』でお読みくだされ。