無常

 昨日から「無常」ということを考えている。なぜかというと、ワシャの好きな映画監督の小津安二郎が「無常」をテーマとしていたからである。たとえば自作の「麦秋」について「キネマ旬報」でこう言っている。
《これはストーリィそのものより、もっと深い“輪廻”というか“無常”というか、そういうものを描きたいと思った》
麦秋」に限らず、小津の映画には「無常」が通奏低音のように流れている。北鎌倉の円覚寺にある小津の墓にも「無」という字が刻まれてある。ここには生涯独身を貫いた小津が母とともに眠っている。そういった意味で、小津は映画以外になにものも残さなかった。

 源信の『往生要集』にこうある。
《人の命の停まらざること、山の水よりも過ぎたり。今日存すといへども、明くればまた保ち難し》
 ひろさちや氏は『ひろさちやの般若心経』(新潮文庫)の中でこう言っている。
《仏教では、死を、氷が融けて水になるようなものだと考えます。最初の状態では、100%の氷です。しかし、誕生の瞬間から死ははじまっています。(中略)最後に0%の生=100%の死になるわけです。》
 そしてこう結論づける。
《氷と水とを連続的に考えれば、氷もH2Oですし水もH2Oです。H2Oは増えも減りもしていません。全体量は同じですね。》
 ここは、「般若心経」の「不生不滅」を説明しているところで、この部分を引いてなにが言いたいかというと、氷(生)が融けて、水(死)になっていく過程は、常に変化していてその場に留まっていないということ。

 再び『徒然草』から。
《思ひ出でてしのぶ人あらんほどこそあらめ、そもまたほどなくうせて、聞きつたふるばかりの末々は、あはれとやは思ふ。さるは、跡とふわざも絶えぬれば、いづれの人と名をだに知らず。年々の春の草のみぞ、心あらん人はあはれと見るべきを、果ては、嵐にむせびし松も千年を待たで薪にくだかれ、古き墳はすかれて田となりぬ。その形だになくなりぬるぞ悲しき》