嗚呼、ノモンハン


 昨日は司馬遼太郎が好きだった新選組土方歳三について書いた。
 奇しくもなんともないが、今日は司馬がもっとも嫌ったノモンハン事件が起きた日なんですね。
 司馬さんは一度この事件を取材している。たぶん小説にしようと考えられたのだろう。しかし、ご本人がどこかに書かれていたと思うが、ノモンハン事件(1939年)は、調べれば調べるほど、事件の中心になる人物(主人公)の臭気が鼻につき、ついに書くことなく彼岸に旅立たれた。司馬さんにとってはいわくつきの事件である。(ちなみにノモンハンとは中国東北部のモンゴルと国境を接する地域にある村の名前)

 ワシャは昭和の軍人の中に嫌いな軍人が何人かいる。例えば、インパール作戦を指導した牟田口廉也である。(牟田口の詳細は下記をご覧あれ)
http://www4.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=427365&log=20101102
でもね、インパール牟田口なんか小物に見えてくるのが、ノモンハンを主導した辻政信である。この辻の上司という役割で服部卓四朗が登場するが、辻の悪辣ぶりから言えば、まだまだ牟田口級の悪人でかわいいものだ(けっしてかわいくないけど)。司馬さんは、この卑怯な軍人を嫌ってノモンハンを小説にしなかったと言われている。
さて、この辻政信、当時の日本陸軍においてエリートだった。もちろん上司の渡辺も同様で、陸軍士官学校陸軍大学校の優等卒である。当時の愛国少年たちは官僚より軍人に憧れていたから、帝国大学より陸軍大学校のほうに志望が向いていた。そこでトップクラスの成績を修めていたのだから、彼らの俊秀ぶりがうかがわれよう。
 頭だけは抜群に良かった。とくに陸軍参謀本部第一部第二課(作戦課)にはエリート中のエリートが集まった。辻も渡辺ももちろんその中の一人だ。この参謀コンビが主導してノモンハンで大敗北を喫し18000人の将兵を殺した。
ノモンハンの現場指揮官の多くはその責任を追及され厳しい処分をされた。辻、渡辺ら参謀の愚策にも関わらず最前線で必死にソ連軍と闘った連隊長、大隊長、中隊長(みなエリートではない。現場叩き上げの軍人ばかり)たちは、自刃している。
 辻と渡辺に下された処分は、なんと「人事異動」だった。別の部隊で1年も勤めるとすぐに三宅坂参謀本部に呼び出されて第二課勤務となる。いつの時代もエリートは責任をとらない。

 そしてこの最悪コンビが次にやったのが、「好機南進、熟柿北攻」作戦である。いかにも頭でっかちの秀才君が考えそうな作戦名で、見るからに臭そうでしょ。司馬さんなんか、この名前を見つけた時に吐いたんじゃなかろうか。これを渡辺課長が参謀会議で発表した時、若手の物事がきちんと見える参謀から反論が出た。腐った組織の中にもときにまともなリンゴも存在するということだ。
 しかし、ここで大悪人辻政信の本領発揮である。この場面は、半藤一利ノモンハンの夏』(文藝春秋)から引く。
「課長に対して失礼なことを言うな。課長は広い視野に立っておられるのだ。課長もわが輩もソ連軍の実力は、ノモンハン事件でことごとく承知だ。現状で関東軍が北攻しても、年内に目的を達成するとはとうてい考えられぬ。ならば、それよりは南だ。南方地域の資源は無尽蔵だ。この地域を制すれば、日本は不敗の態勢を確立しうる。米英恐るるに足りない」
 若い参謀はなおねばる、「米英を相手に戦って、勝算はあるのですか」。
 辻参謀は断固としていった。
「戦争というのは勝ち目があるからやる、ないから止めるというものではない。今や油が絶対だ。油をとり不敗の態勢を布くためには、勝敗を度外視してでも開戦にふみきらねばならぬ。いや、勝利を信じて開戦を決断するのみだ」
 この渡辺課長の愚策を推す辻の説法で日本の開戦は決定的となった。このために犠牲になって死んだ将兵、国民は何百万にも及ぶ。
 さすがに司馬さんもこれほど途方もないバカは文章にできなかったのだろう。

 辻は、戦犯として裁かれるのを恐れ、アジアじゅうを逃げ回る。ほとぼりが冷めた後、日本にもどって、自身の逃亡体験記で一発当てて、その資金を足掛かりにして、国会議員にまで出世する。タフなワルというか……。
 戦後、辻はノモンハンの言い訳をあちこちに書き記している。
ソ連軍がまさかあのような兵力を外蒙の草原に展開できるとは、夢にも思わなかった」
 夢にも思わなかった?
 それって言いかえると「想定外だった」ということですよね。
 どこかで聞いたことのあるフレーズではないだろうか。72年経ってもエリートの言うことはかわらない。