天は墜ちるし、地は裂ける

 コラムニストの勝谷誠彦さんが昨日のメルマガでいい発言をしておられた。これはとても大切なことなので、考え方を拡散するために少し引きたい。
《しかし、今回のようなエネルギーを持った物体が原発を直撃したらどうなるんですかね。「想定外」はあり得ないということを私たちはそろそろ学んだ方がいい。「想定外」の時にコントロールできなくなるようなものには手を出さないことだ。》
 ロシアに落ちた隕石のことである。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130216/t10015565451000.html
 この隕石が日本を直撃しないという保証はどこにもない。地球上のどこにでも墜ちる可能性がある。例えば人口密集地を直撃すれば、被害は甚大なものになり、今回のような衝撃波による被害程度ではすまないだろう。
 隕石が地球に落下してくるのは、天の摂理である。もし自分自身の周辺でそういうことが起きれば天命だと思って諦めるしかない。
 だが、勝谷さんが懸念されるように原子力発電所に落ちることを考えると、これは天命なんだと諦観して済むものではない。落下するところに原発を作ったのは、人為であるからだ。人為的につくられた福島第1原発を隕石が直撃すれば、本州島の東の半分は死ぬ。
 そもそも原子力は人間の手にはおえない。そんなものを目先の微々たる利潤の追求のために稼働していることの恐ろしさはいかばかりであろう。

 今朝の朝日新聞社会面。福島第1原発の事故の3か月後、生計が立ち行かなくなった酪農家が自殺した事件を報じている。これは一例に過ぎない。福島で、人が寄って立つ故郷の土地を殺され、そのことに絶望した人間が、はたして何人自殺したことだろう。
 2009年に写真家の中筋純さんが『チェルノブイリ春』(二見書房)を出版した。全編、死んだ町が映し出されている。あの事故以来、28年が過ぎているが、チェルノブイリ一帯は死んだままだ。多分、この後も、チェルノブイリの大地が生き返ることはないだろう。
 だが、チェルノブイリ原発はまがまがしいエネルギーを胎動させながら、相変わらず生きている。聞いたところによれば、現在も2000人以上の作業員が原発の暴走をなだめるために常駐しているのだそうな。

 福島第1原発も同じである。双葉町浪江町原発に蹂躙されてしまった。チェルノブイリの例を見るまでもなく、放射能に汚染された地域は、今後長期にわたって放置せざるをえない。
 つまり、津波でも地震でも隕石でも、あるいはミサイル攻撃でもテロでも、一旦ことが起きれば、原発は制御不能になって拝金主義の民の上に余殃としてとどまるということなのである。
 少し不便でもいいと思う。つつましい生活をして原子炉とおさらば出来るなら、ワシャはそのほうがいいし、子孫に美田を残す必要はないけれど、少なくとも放射能に汚染された土地だけは残したくない。
 もう一度、引かせてもらうが、《「想定外」はあり得ないということを私たちはそろそろ学んだ方がいい。「想定外」の時にコントロールできなくなるようなものには手を出さない》ということに尽きる。