夜色楼台図

 夜である。京の町に雪がこんこんと降っている。縦28cm横129cmの横長の紙本に、雪夜の東山連山と麓に広がる家並を描く。蕪村の墨絵「夜色楼台図」(やしょくろうたいず)である。
http://www.miho.or.jp/booth/img-big/00011896.jpg
 昨日、遅めの昼食を取りながら何気なくテレビを眺めていたら、テレビ東京の「美の巨人たち」の再放送をやっていた。
http://www.tv-tokyo.co.jp/kyojin/backnumber/101225/
 その番組で取り上げられていたのが「夜色楼台図」だった。いやぁー感動した。

 どんよりとした黒っぽい空が東山三十六峰の上空に滞っている。そこから重たい牡丹雪が京洛の里に降り続く。すでに峰々は綿帽子をかぶっている。その裾に立ち並ぶ町家や寺社の輪郭は濃い墨で描かれ、屋根に積もった雪は胡粉(ごふん)によって塗り重ねられ立体感を醸す。そして何軒かの楼郭や家には紅がさしてある。このことによりこの絵は一気に精彩を帯び、深々と冷える雪の夜の東山を詩情豊かに描ききっている。

 ワシャは無知な人間なので、墨絵の鑑賞が苦手だ。その良さも今ひとつはっきりと見えてこない。でもね、与謝蕪村は別格だ。「富嶽列松図」「鳶・鴉図」など、どの作品を見ても詩情が豊かに伝わってくる。
 ああ「夜色楼台図」の本物が見たくなった。いやいや「見たくなった」という生半可なものではない。「見てー!」くらい見たい。どこかで「蕪村展」やっていないかなぁ。

 その蕪村、尾張を訪なった折に、長良川で鵜飼に興じる機会があった。その舟遊びの仲間に尾張徳川家の上級武士が何人かまじっていた。その時に詠んだ句がこれである。

 殿原(とのばら)の名古屋皃(がお)なる鵜川かな

 長良川鵜飼は尾張藩の所轄だった。観漁は恒例行事であり、そこに蕪村も同席している。なごやかな藩士たちの上品な顔を見て、「なごやかな顔」から「名古屋顔」を思いついたのであろう。

 蕪村は全国を遊歴している。故郷の淀川沿いの毛馬村を二十歳になる前に離れ、五十近くに京都四条界隈に腰を落ち着けるまで、蕪村の生活は漂泊の中にあった。
 京にたどり着いてから十数年。終の棲家で、雪の降る夜半、四条あたりから西を望んだとき「夜色楼台図」が生まれた。画にはどこを描いたというようなことは書かれていないけれど、画の左端に蕪村が晩年に用いた「謝寅」(しゃいん)という署名があるところから、この雪の風景が京の東山だと言われている。

 上記の文を書いていて、常に引っ掛かるものがあった。ちょいと『国史大辞典』で蕪村の没年月日を調べてみる。
(調べ中調べ中……)
 おお、12月25日だった。やっぱり。どこかで蕪村の亡くなった日が、年末に近いことを見知っていたんですな。
 惜しい。あと2日だったか。それなら2日あたためておけばよかった。でも、すでに7時45分を過ぎている。とてもじゃないが、他のネタで書き直している時間はない。2日かすったけど「春星忌」記念ということで。

(メモ)床屋