雨あがる

(昨日の続き)
 柳ケ瀬でタクシーに乗った。フロントガラス越しに見える北の雲は重い。しかし、西の空は明るくなり始めている。このまま雨があがってくれればいいのだが……。
 タクシーは岐阜市の中心街を抜け、長良川近くの旧市街に入る。このあたりの町の風情は京都を思わせる。
 雨は、時おり、ウインドウを打つけれど、勢いはなくなっている。
 車は、魚屋町、東材木町、上茶屋町木挽町と歴史を感じさせる町の小路を過ぎていく。やがて正面に金華山が壁のように立ちふさがり、岐阜市歴史博物館の西に到着する。わずかなドライブだったが、久しぶりの岐阜の町見物は面白かった。
 タクシーから降りて、すぐそこが歴博の正面玄関である。でもね、歴博の玄関を素通りする。お楽しみはあとにとっておいて、少し金華山を眺めたかったし、岐阜公園の中も散策したかったのだ。

 その岐阜公園である。金華山の西の山襞もその園内に含まれており、公園全体では20haくらいだろうか。平場としての純粋に公園と呼べるところは4haくらいしかない。その公園のあちこちにベンチが配置されていて、いいポジションをとれば山頂の岐阜城が望める。
 ロープウエイ乗り場の先にある朱に塗られた三重塔や、信長公居跡、板垣退助の碑など巡った。裾野の林間にも足を踏み入れた。つい先ほどまで驟雨に濡れていたせいもあるのだろうが、うっそうと生い茂る樹木から、むっとするほどの樹の匂い……マイナスイオンとでも言うのでしょうか、深呼吸をすると実に清々しい。深山にいるような錯覚にとらわれる。
 とくに三重塔の南に細流があるのだが、そこが昨夜来の雨で増水し、滝のようにほとばしっていた。その流れに、やはり朱の橋がかかっている。そこをわたると、百坪ほどの平場になっている。そこから東を見上げると樹木の間から山頂の天守閣が垣間見えた。このロケーションからも、ここが裾野にあった居館の一郭を成していたことがわかる。林間のドームのような空間は別世界のように静謐だった。

 さて、妄想はそのくらいにして、下に降りたい。目的はあくまでも歴史博物館なのだから。

 その岐阜市歴史博物館、常設展では、岐阜の歴史を大づかみすることができる。館の2階の総合展示に入ると、ボランティアの方が常駐してくれているので、その人たちの話を聞くに限る。う〜む、オラが町の博物館にもこういったガイドさんを置かなければいけない。話を聞くのと、聞かないのでは、雲泥の差がありますぞ。
 ワシャらには、70くらいのおじいさんがついてくれた。かなり突っ込んだ質問をしたが、流暢に答えてくれた。例えば、
稲葉山城は水には恵まれた城だと聞いているが?」
稲葉山城木下藤吉郎が侵入した経路は?」
 というような質問をした。
「基本的には金華山系では普通の山城同様に水の確保は難しかったと思います。ただ、北側の断崖がそのまま長良川左岸になっているので、そこから取水することができます。そういった意味から言えば、水の手は豊富だったと言えるかもしれません」
「藤吉郎が稲葉山城に迫ったのが、まさにこの水の手からでした。今でも断崖になっていますが、守備側もまさかこの水の手から敵がやって来るとは思わなかったのでしょう。藤吉郎の奇襲作戦が功を奏したわけです」
 このボラガイさんとは話がはずんでしまい、結構、長居をしてしまった。

 実は岐阜歴博を訪ねた主目的は、岐阜の歴史を勉強しようということではない。今回、ここで行われている特別展「安倍朱美創作人形展」
http://showa-dollart.jp/
を観たかったのである。
 ワシャは人形好きだ。そういうと友人たちは意外な顔をするが、そもそもワシャは「文楽」を観るし、地元では「からくり人形展」の開催に関与したこともある。「ひょっこりひょうたん島」の大ファンだったし、人形劇の「三国志」の作者である川本喜八郎の美術館
http://www.city.iida.lg.jp/kawamoto/
飯田市にあり、そこには足しげく通っているくらいだ。
 話を戻すけれども、この安部朱美さんの人形の表情に魅せられた。きっかけは、雑誌である。何かの雑誌を見ていて、グラビアのページに安部さんの作品があった。川辺で老人が、くつろいだ表情でキセル煙草を吸っている。最初は本物の人間だと思っていたが、よく見れば人形だった。
「なんじゃこりゃー!」
 と松田優作になってしまった。
 安部さんの作品が30点あまり、人形の数にして100体を超えている。見ごたえ十分なのだが、人形が優しいので、圧迫感はない。いつかどこかで見た風景が次から次へと展開していく。
 ワシャをこの場所へ誘ってくれた川辺の老人も独りキセルを燻らせていた。時間さえあれば半日でもこの空間で過ごすことができそうだ。仕事や人間関係で毛羽立っていた神経が癒されていくのが具体的にわかるくらい優しくなれる時間を持つことができた。
 展示会は5月27日(日)までである。疲れているあなた、一度足を運んでご覧あれ。

 館内で2時間ほど費やしていた。2階の常設展から正面のエントランスに下りる。
 おおお、玄関の大きなガラス越しに見える岐阜公園は晴天の中にある。雨があがって青空が広がっている。
 急いで外に出れば、清々しい風に公園内の木々が揺れている。雨上がりの叢林はことのほか美しい。見上げれば金華山の頂きに白亜の天守が青を背景に屹立している。この瞬間に、加納城も、人形も、飛んでしまった。ことほどさように雨が上がったあとの金華山の様子は素晴らしい。
《峠の上に出て、幕でも切って落としたように、目の下にとつぜん隣国の山野がうちひらけ、爽やかな風が吹き上げて来ると、彼は「やあやあ」と叫び出した。》
 山本周五郎の名作短編『雨あがる』のラストシーンである。
 金華山を見上げながら、このフレーズを思い出していた。キラキラと輝く嫩葉がまぶしかったのか、なぜか泪がこぼれてしまった。もちろん友だちに悟られないようにそっと拭いましたよ。
 ああ、とてもいいゴールデンウイークの最終日だった。