ムーンライト・セレナーデの続き

 刈谷のシンポジウムの続きである。
 映画の中に、広島への原爆投下の映像があった。そこにも「ムーンライト・セレナーデ」が流れている。オバマ大統領が広島訪問をされた直後だったので、目にも耳にもちょうどの時分だった。その衝撃映像に続いて敗戦国のみじめな風景が当時のモノクロフィルムで再生される。あらためて、戦争に敗北することの悲惨さを痛感する。
 でもね、こういった映像を見て、それに重ねてアヘン戦争以来の東アジアの歴史を知れば知るほど、戦争で勝敗は決まるにせよ、どちらかが「絶対善」でどちらかが「絶対悪」などということが存在しないことを切実に感じる。周辺を絶対善国家にこれだけ囲まれながら、日本はあの敗戦からよくぞ立ち直ったと思う。

 篠田監督は四半世紀ほど前に刈谷の駅頭に立っていた。その時の印象と今の状況を問われて「ずいぶん変わったね。日本人が銅鐸をつくって以来のものづくりの文化がここにあり、このすばらしいまちづくりはその延長線上にある」というようなことを言われた。よくわからなかったけれど(笑)。
 ワシャが「瀬戸内ムーンライト・セレナーデ」を最初に観たのは二十年ほど前だった。その時は今回ほどの印象がなかったのだが、今、あらためて観てみると、高田純次吉川ひなのなどの脇役の演技が光っていたなぁ。高田さんなんか「適当」どころではなく、きっちりと人のいい闇屋を好演していたし、吉川さんも薄幸だが懸命に生きようとしている娘になりきっていた。その他にも、チョイ役だけど火野正平羽田美智子余貴美子などが要所要所を締めている。
 映画って観る時代世代によって印象が変わると、誰かが言っていたがホントにそうなんだと再認識をした。
 ワシャのことなどどうでもいい。篠田監督のことである。シンポジウムの中で「岐阜出身である」と何度も言われていた。ワシャの記憶に間違いなければ、篠田監督の家は岐阜城金華山)の麓にあったはずだ。そこから岐阜の中学校に通い、あるいは各務原の三菱の航空基地に勤労動員された。シンポジウムで篠田さんが言われていた「岐阜空襲」などは、金華山に連なる山の上から見た光景なのだろう。
 その岐阜空襲は昭和20年7月8日の午後11時過ぎだった。百数十機のB29が飛来し、小一時間にわたって岐阜市の中心地を爆撃した。死者は800人を超え、20000棟以上の家屋が焼失・破壊された。この大殺戮を篠田少年は直視していたのだ。まさに、「瀬戸内ムーンライト・セレナーデ」の冒頭は、篠田監督の原体験なのである。
 昨日、チラシの話をした。
http://blog.livedoor.jp/toukaiseminarportal/archives/6369736.html
 このチラシですね。行政関係者から言わせれば、「なぜカキツバタを写しこまないのか」という話で、それはそれでもっともだろう。しかし、この写真は篠田監督には大うけで「現在と4万年前の記憶が融合した素晴らしい写真」なのだそうな。最初にワシャがこのチラシを見たときに、「篠田監督の『少年時代』の風景に似ているな」と思った。それは対談者の成瀬さんからもそういう発言があったので篠田監督の、戦争とは別の原風景の中にあるのかもしれない。ワシャらにはなんてことのない風景なのだけれど、やはり篠田監督のような映画界の大御所からそう言われると、それらしく見えてくるから不思議だ。映画のワンシーンのように見えてくる。この未舗装路を「監督の道」とか「少年時代の道」とか名づけて売り出してしまえばいい。刈谷市にまた財産が増える。

 そうそう、今、思い出した。篠田監督の「少年三部作」である「瀬戸内少年野球団」「少年時代」「瀬戸内ムーンライト・セレナーデ」をつくろうと思ったきっかけが、司馬遼太郎さんにあったというようなことをである。なんの本だったか、ううむ、今から書庫の中を探している暇はない。出典が明確に言えないけれど、なにしろ篠田監督が「明るい映画」に踏み出す背中を押したのは司馬さんの「きみの映画は暗いよ」という一言だった。そんな記憶がよみがえった。