美濃加納と人形

 書棚に『江戸時代図誌』(筑摩書房)27冊がほこりをかぶっている。その中の11巻が「中山道」である。図誌をパラパラと繰ると、安藤広重の「木曽海道六十九次」が幾枚か見つかる。そこに江戸から数えて五十四次目の「加納宿」の絵がある。
 絵を見てみよう。手前下方が街道になっている。小さく描かれた大名行列が右奥から左手前にむかってやって来る。画面を中央で二分するように並木の松が二本立っている。その向こうは水田であろう。緑に着色された広い野があり、その野の右端に城郭の櫓と石垣が見える。加納城である。
 加納は現在、岐阜市になっている。JR岐阜駅の南の一帯が旧稲葉郡加納町。岐阜市は元々長良川沿いの水運の拠点である金華山麓の井口(後に岐阜)と、その南にある中山道の宿場町として栄えた加納の二極をもつ町だった。
 そして、その近接した二極それぞれに城があった。家康が天下を掌握し、徳川幕府安寧のため城郭配置に着手する。その最初の仕事が、天嶮の上にそびえる岐阜城を移設し、加納城を拡大再築するというものである、その結果、岐阜城は姿を消す。
 ちなみに、加納城を再築したのは、鹿角の兜で有名な本多忠勝、入城したのは、長篠の合戦で活躍した奥平信昌であった。

 実は、今、奥平貞能(信昌の父)のことをまとめようと思っている。そのためにあちこち貞能ゆかりの場所を巡っているのだが、この加納城は未踏だった。だから、昨日、友だちをさそって訪なったというわけである。
 加納城、もちろん城は残っていない。本丸跡とそれを囲む土塁と石垣が残っているばかりだ。二の丸、三の丸はすでに公共施設が立ち、その面影は見えない。城跡では、驟雨に見舞われたが、平城なりの構や堀(現在は埋め立てられているが)に降りて、石垣の高さを感じたり、収穫はあった。
 その後、柳ケ瀬まで足を伸ばして、うどんの名店「田毎」で昼食をとる。ここでワシャは天ぷら蕎麦を食べたのだが、この蕎麦が美味かった。細い蕎麦で咽ごしがいい。これならせいろで食えばよかったと後悔したほどである。
 食事をすませて、店を出ると雨は止んでいた。しかし、まだ雲は厚い。またいつ降り出してもおかしくない。「田毎」のすぐ横にタクシー会社があった。歩いてもよかったのだが、雨の心配と時間の節約のため、タクシーに乗り込んで金華山へ向かったのである。(続く)