奥平の始まり

 5月1日の日記で、三河作手の土豪、奥平貞能について軽く触れた。その折に、《何代目かに、この一族に貞能(さだよし)という食えない男が現われる。》と書いた。
 正確に言うと、もともと作手の郷士に山崎某というものがあり、その人物を頼って貞能から数えて四代前の貞俊(さだとし)という男が上野国(こうずけのくに)甘楽郡(かんらぐん)から移ってきた。以前は、新田義貞の家臣であったという。そう言われてみれば、奥平代々の「貞」の字は義貞の「貞」ではある。
 さて、貞俊の息子の貞久(さだひさ)の時に、西三河で勃興し勢力圏を拡大しつつあった松平家とよしみを結んでいる。その後は、甲州武田に属したり、駿府今川についたりとその時々の状況に応じて、周辺の戦国大名の間を日和見をしていた。
 これも小土豪にとってみれば仕方のないことだろう。奥三河という地域は東を今川に、北を武田に押さえられ、西からは新興勢力の松平に圧力を掛けられるというまことに政治情勢の厳しい土地柄だった。このために、東にいったり北になびいたりとイソップ物語の蝙蝠のような生き方が、この一族の生き残り策にならざるを得ず、そういった方針が一族に染み付いている。
 そして貞能の代になり、この男が大ばくちを打つ。周辺の戦国大名の間をうろうろしていた方針を転換し「松平につく」ことを決定した。このギャンブラー頭目の運と先見性により、奥平家は、徳川の発展とともに10万石の大名に取り立てられ幕末まで九州中津で続くことになる。
 維新後も伯爵に叙せられ、現在も名家として残っているのだから、貞能が奥平家のためになした功績はきわめて大きい。

 奥平一族は上野国で、新田義貞を盟主とあおいでいた。しかし、国事に奔走した新田氏が自身の領地である関東の経営を顧みなかったことで、関東の乱れを呼んだ。そういったことが要因となり奥平の三河移住につながる。
 また奥平家は南朝方であり、室町幕府の追及も厳しかった。そんな中をさまよい歩き、ようやく作手に落ち着く。これが作手奥平の始まりである。