刈谷城とハリマオ

 ワシャは城址好きである。でもね、天守閣のそびえ立つ城よりも、城の痕跡である城址のほうがいい。土台だけだと、いろいろ勝手に想像できるでしょ。その妄想が楽しいのである。

 三河碧海大地の西の端に、亀城(きじょう)と呼ばれる城があった。その城が、今年、築城480年をむかえる。地元では祝賀ムードが盛り上がっている。
 ある集まりで、関係者からその記念事業についてPRがあった。同席者から「480年とは中途半端ではないか。500年とかならわかるけど……」という発言が出た。関係者が、答えに窮しているようなので、ここは城好きのワシャがフォローしておかなければとしゃしゃり出た。
「480年でいいのです。500年ではダメなんです」
 質問者は、あらぬ方向から弾が飛んできたので驚いている。ワシャは続けた。
「十干十二支で考えれば……」
 とは言わない。
「還暦って言うでしょ。60年でひと回りするやつ」
 質問者がうなずく。
「もともと日本の暦は60を基にしているので、60の倍数である480でいいんですよ」
 60の八倍、末広がりでおめでたくていいじゃないですか。

 おっと、亀城のことである。
 正式には刈谷城。『日本城郭大系』によれば、天文二年(1533)に尾張国知多郡緒川城主の水野忠政が築いたとある。忠政、刈谷城を造って、尾張国知多郡から三河国碧海郡に拠点を移した。といっても、両国の境の川を渡っただけで、距離にして半里(2000m)ほどの移動であるから、大したことはない。ただ、水野家の勢力拡大には、この半里の移動が重要な意味を持っていた。
 このころ、西三河では、松平家の内紛が起きている。揉めているところには付け入る隙が生じる。これを忠政は見逃さなかった。川向うから碧海を望むのではなく、川を渡って、碧海台地の西の端にその地歩を固め、東への勢力拡大を狙う。このために刈谷城の築城は必須だったのだろう。
 城好きの観点から、少し刈谷城を眺めたい。
 城は西に境川を背負っている。現在は城址から川まで距離があるが、当時は城の石垣が川面から立ち上がっていた。刈谷城絵図を見れば、川面に降りる石段も確認できるので、城の下まで舟が付く構造になっていることが確認できる。
 台地につながる脆弱な北、東、南面には、二重の掘割をうがち、敵の攻撃に備えている。
 刈谷城単体で考えると、さして防御力のある城とは見えない。だが、これを緒川城と一対の城と見ると、少し趣が違ってくる。刈谷城と緒川城の間を流れる境川を水路と見なすと、双方の城の間で、兵員、物資の輸送が容易であることが解る。このことで攻城戦はがぜん有利になってくるのである。もちろん水上の権を握っておく必要があるけれど。

 昨日、ある人からとても楽しい冊子をいただいた。その人は、4000点におよぶ昭和のおもちゃを収集していて、この度、その一部を冊子にまとめられた。これがおもしろい。
 ブロマイド・日光写真・面子などのページでは、「鉄人28号」、「狼少年ケン」、「鉄腕アトム」のシールが懐かしい。タンスや鏡台なんかにベタベタと張り付けたことを思い出しましたぞ。
 皆さん、「ハリマオ」って知ってますか。昭和30年代に「快傑ハリマオ」というテレビドラマが放映されていた。その主人公が「ハリマオ」である。この「ハリマオ」の、いかにも作りの悪いセルロイド製のお面が冊子に掲載されていた。う〜ん、めちゃくちゃ懐かしい。いかにもチープな作りで、見ただけでは「ハリマオ」かどうか判らない。だから、ひたいのところに「ハリマオ」って書いてあるのだ。なんだか胡散臭い商品だが、これが夜店で売られていると、無性に欲しくなってしまった。ワシャはこのお面を購入し、間違いなくかぶっていた記憶がある。あのセルロイド独特の臭いも思い出すなぁ。

 この懐かしい写真満載の冊子とともに「刈谷城築城480年」のチラシが同封されていて、それが冒頭の話題につながる。
 今年は刈谷が楽しそうだ。