作手古宮城

 高月院を後にして、一路、作手へとむかう。ちなみに作手というのは愛知県新城市作手町のことで、そこにある古宮城をめざす。
 岡崎の市内は、北へ上がっても南に下っても、東へ走っても西にもどっても、どの幹線も大渋滞だった。それに比べると新城街道は貸切状態で、それも国道なので整備がよい。安全運転で快走する。レース場とは言わないけれど、滑らかなステアリング、心地よい走行感。でも、安全運転でね(笑)。

 作手のことに触れたい。
 三河国に奇観がある。少なくともワシャの眼にはそう映っている。作手の地形はギアナテーブルマウンテンに似ていると思いこんでいる。三河は国の東域に山が多い。その山々の南の端に、そこそこの平野がテーブルのように広がっている。そこを作手高原と称す。
『愛知の地名』という本がある。それによれば、作手とは「水が漬きやすいところ」と解説してある。「(水に)漬く手(て)」ということで、手は、上手(かみて)、下手(しもて)などにも使われているように「場所」を示す。
 平凡社の『日本歴史地名大系』にはこんな話が載っている。善福寺(作手)縁起に「天長元年(824)に真済(しんぜい)という空海の弟子が来寺し、聖徳太子が作った神像を補修した際に、欠損した手を作ったことから名が起こった」とある。しかし、著者はこのエピソードを「後世の仮託」と断じている。でも、こちらのほうがストレートで分かりやすいし、なんとなく歴史のロマンのようなものを感じませんか。

 作手高原には東西南北いずれからもアクセスができる。ワシャは松平から国道301号をたどっている。このコースをとると、あまり起伏を感じずに作手高原にはいることができる。
 南から作手にはいる田原坂はつづら折れがこれでもかというほど続く。東から作手高原を眺めれば山々は屏風のように立ちはだかり、北からのアプローチも険しい登り道となっている。西側の一部だけが外界に開いている、そんな地域なのである。

 車はすでに作手にはいっている。国道301号は高原にはいって間もなく突き当たって直角に右に曲がる。ここから少し走れば古宮城である。
 実は、奥平の居城の亀山城にも立ち寄ったのだが、今回は古宮城について述べたい。
 古宮城、元亀2年(1571年)に武田信玄馬場信春に命じて築城させた。当時は、このあたりが武田家と徳川家の領土境で、街道上での要衝でもあったことから、武田の築城技術の粋を集めて、城が築かれた。
 たぶん、城跡好きのかたなら、古宮城の重要性をご存知だと思う。なにしろこの城の構えは要塞として周辺の城郭を圧倒している。
 こちらのかたのブログに詳しいのでご覧くだされ。
http://tutinosiro.blog83.fc2.com/blog-entry-1055.html
 なにしろこれほどの要塞がそのまま440年の時を超えて残っているのである。奇跡と言っていい。
 この城を巡ってのめぼしい攻防戦はなかった。武田方がこもるこの要塞を織田・徳川連合軍が攻めたと仮定したならば、おそらく攻撃側に甚大な被害が出たことは想像にかたくない。それほど、この城の防御は鉄壁なのである。

 秋口、東京から何人かの仲間が三河を訪れてくれる。ワシャはその仲間を誘って、長篠や桶狭間などの合戦の場に行った。しかし、残念ながら古宮城は案内していない。なぜか。
 夏から秋にかけて古宮城を攻めると、鉄壁のマムシ軍団が守備をしているので、素人が近づけないのだ。この間の土曜日はマムシ軍団はまだ冬眠中で、マムシを起こさないようにそっと散策をしたのだった。めでたしめでたし。