古代に想いを馳せる

 681年3月17日、時の天皇の天武帝は、日本の正史の編纂を命じている。その結果が『古事記』、『日本書紀』となる。古代日本の大乱だった壬申の乱は、ここからさかのぼること9年前、飛鳥の政変劇である大化の改新は36年前のことになる。

 少し、その時代を歩いてみたい。
 645年の飛鳥宮である。女帝である皇極天皇は、大極殿での外交儀礼を執り行っていた。その最中を狙って中大兄皇子中臣鎌足が、時の権力者である蘇我入鹿を暗殺する。そのあたりは『日本書紀』の「巻第二十四 皇極天皇」に詳しい。
 この後、皇極帝は位を弟の軽皇子(かるのみこ)に譲られる。皇子は孝徳天皇となり、中大兄は皇太子となった。孝徳天皇の御代は9年続くのだが、実権は中大兄と鎌足に握られている。中大兄と対立した孝徳天皇が失意の中、難波宮で没すると、姉の皇極帝が再び皇位につき斉明天皇となる。この時も、中大兄は皇太子として実権を握り続け、実質の政治は中大兄−鎌足ラインで回っていく。
 661年、母の斉明天皇が亡くなると、中大兄は皇位にはつかないけれども政務は執行するという「称制」という形式で朝廷を維持していく。中大兄が皇位につくのは、7年後の668年のことである。この間、皇位は空いていたということになる。
 ともかくも、中大兄は天智天皇になった。なったとたんに寵臣の鎌足が身罷り、その2年後に後を追うようにして自らも崩ずる。671年12月のことである。
 天智天皇は、古代史の中でも強烈な個性を持つ人物である。そして不運なるかな、弟の天武天皇も、また際立った力量を備えた男だった。しかし両雄は並び立たない。天智天皇が健在の折、大海人皇子は、吉野に隠棲しひたすら恭順の意を示しつづけた。兄に刃向えば、間違いなく討滅されるからである。
 吉野にも天智天皇崩御の報は飛んだ。この報に触れ、大海人皇子はようやく腰を上げたのは、672年6月のことだった。ここから朝廷の跡目をめぐって、息子の大友皇子と弟の大海人皇子が争う壬申の乱が始まる。

 さて、大海人皇子が吉野を出立する時、その周囲を固めた兵があった。吉野に土着する国栖人(くずびと)である。神武東征の際は敵対勢力であったが、壬申の乱大海人皇子を支援することにより失地回復をなす。このあたりの大海人と国栖人との交流を題材に書かれたお能がある。「国栖」という。そのまんまやんけ。
 この「国栖」が明日、名古屋能楽堂で演じられる。
http://manjiro-nohgaku.com/news/
 そのことが言いたくて延々と書いてきた。