死生観

 今月、愛知県内某所にて、評論家の呉智英さんと哲学者の加藤博子さんの対談講演会が開催される。4月当初に50人定員で参加者の募集を始めたところ、2日で定員オーバーとなり、急遽、会場を拡大して100人を受けることとした。じつはそれもすぐに満タンになったと聞いている。すごいな。

 テーマは「言葉の始まり、言葉の広がり 言葉に関する興味深いおはなし」である。もちろん呉さんは言葉の達人であり、その知識のスケールは日本のトップレベルにあることは誰もが認めているところだ。

 なにしろ数多存在する評論家の中で、呉さんに議論を挑んで勝った人を見たことがない。というか、そもそも利口な論客たちは呉さんにディベートを仕掛けるような愚かなことはしない。必ずや論破されるからである。

 でもね、呉さんはワシャらのような凡庸な人間には優しい。バカを自覚する者たちに対しては、そこまで降りてきて話をしてくれる。だから今回の講演も楽しみにしている。テーマは「言葉の始まり、言葉の広がり 言葉に関する興味深いおはなし」。言葉の達人の切れ味に期待したい。

 そして呉さんの相手を務めていただけるのが、哲学者の加藤先生。このお二人は共著『死と向き合う言葉』(KKベストセラーズ)を出されており、すでに「死」にまつわる言葉について議論をされている。ぜひともこのあたりにも触れていただきたいと思う。

 もう3年前になるけれど、保守思想誌「クライテリオン」の9月号の特集「日本人の死生観」に「死を考えることは大衆社会への問い 国語と共同体の崩壊が導く悪夢」と題して、編集長の藤井聡氏と対談をしておられる。ちょっと藤井氏が調子に乗って話過ぎるきらいがあるが、その合間をぬって呉さんはこう言う。

《死をどう認識するかってことはその国の文化です。死をどう認識するかによって、文化なり生きかたなりが変わってくる。》と前置きをして、アメリカの黒人奴隷について言及する。

《彼らは共同体を、そして国語と文化を奪われちゃってるわけだから、だから自分たちの思考ができなくなっちゃった。(中略)黒人問題を差別されて気の毒だと、それはその通りなんだけど、その差別の根底にあるのは共同体と国語の剥奪だったってことに思いを致せないわけですよ。》

 昨今の、移民問題も含めて、「共同体と国語」、そして「死生観」が持っている重みを日本人もそろそろ感じたほうがいい。

 話が逸れるが、基本的に今、愛知県にも津波のように押し寄せている外国人労働者は、協同体を日本人とは同一にせず、安売りスーパーや中古ショップなのでは外国語が大声で飛び交っている。さらに言えば、イスラム教徒と日本人では「死生観」がそもそも違う。何十年か後に、日本人が、言葉、共同体、死生観を失った末人に陥らないようにしなければ・・・と感じた。

※「末人」:劣化して、もうどうしようもなくなった人間のこと

 

 さて、2021年の「クライテリオン」9月号の特集「日本人の死生観」では、精神科医和田秀樹さんも登場する。それに巻頭の特別インタビューが解剖学者の養老孟司さんで、これまたおもしろい話を展開されている。

 ここらあたりから話を広げていって「死生観」についてもう少し書きたいが、すでに字数は千四百になろうとしている。本日も野暮用がいくつか控えておりますし、キリもいいのでので、「死生観」の続きは、また明日のココロで~。