三河の追悼式典

 昨日、地元で400人ばかりの小さな催しがあった。3月11日のことだからもちろん「東日本大震災」に関わるもので、ワシャの友人のNPOの理事長が主催した。途中で雪が舞う寒い天候となったが、それでも東北に思いを寄せるには冷たい雪は塩梅がよかった。

 その友人のことである。彼は昨年の3.11の直後にNPOの仲間とともに岩手県入りした。元々、陸前高田市とは防災の通信事業かなにかで縁があって、地震津波で壊滅した通信インフラを回復すべく駆けつけたのだそうな。
 その後、トレーラーハウスを陸前高田市に隣接する住田町に持ち込んで、住田町の福祉センターの駐車場を根城して活動を始めた。結局、彼らは1年間、住田に居続け、陸前高田市と大船渡市を支援し続けている。

 昨年の3月下旬にこんなことがあった。共通の友人でもある同僚から「理事長が我社に対して怒っている」という話を耳にした。気になったので、早速、携帯に電話すると、「ワルシャワさん?どこのどなたでしたっけ?」と木で鼻をくくったようなことを言う。
「何を怒っているんだ?」と問いつめるとこんな話をし始めた。
 地震直後の三陸を目の当たりにして、これは自分のNPOだけでどうにかなるものではないと思って、すぐに地元の自治体や企業に協力を求めたそうだ。概ねは応諾をしてくれた。それは資金的援助だったり人的な支援だったりした。しかし、我社の防災担当に相談を持ち込んだところ、けんもほろろの応対で、門前払いをくらったと言う。
「そりゃ何かの間違いだろう」
「いや、いまワシャさんの会社の防災部門は名古屋のNPOとつきあっていて、そっちと連携するんだとさ」
 友人のNPOは地元にある。名古屋のNPOとの連携も必要だが、地元のNPOを育てるためにも絶対に協力関係を結んでおく必要がある。
「すぐにワシャのところへ来い。直接、社長のところへ行って話した方がいい」と言うと、「すぐにはいけない」と答える。
「一刻を争う時になぜだ?」
「今、岩手なんだわ」
 電話というのは、こういう錯覚を起こさせるものなんですね。いつもどおり、目と鼻の先のNPOの事務所にいる感覚で話をしていたのである。800キロも離れていたんだね。
 理事長は次の週に愛知に戻るという話だったので、その時に会うことにした。

 翌週、少し痩せた友人は、それでも目をキラキラさせながら、ワシャの職場を訪れた。社長のアポは取っておいたので、すぐに応接で社長と対面することができた。話はトントンと進んで、時期まで調整してバス3台の人員を岩手に送ることが決まった。
 ワシャもどうしても現地入りしたかったので、「行きたい行きたい」とごねた。しかし、どうしてもその時期に外せない部外役員会があり断念せざるをえない。それでも「行きたい行きたい」と駄々をこねたら(ワシャはおもちゃ屋の前のガキか?)、それなら先遣隊として飛行機で現地入りをして、様子を見て来いということになった。わ〜い。
 
 ワシャの話はどうでもいい。とにかくその理事長のおかげで、大船渡市、陸前高田市との紐帯は太くなり、なんと8月には三河から七夕祭りの笹や飾りを贈って、中止を余儀なくされていた大船渡市の七夕を開催するまでにこぎつけた。
 昨日の催しにも、遠く三陸からのメッセージが披露され、参加者の涙を誘っていた。
 友人の理事長も、普段は鬼瓦のような男で涙など見せないのだが、この時ばかりは涙を浮かべていた。
 催しの最後に、沢山の白い風船が空に放たれた。折からの風に乗って、うまい具合に東北の方向に流れていく。抜群の偶然の演出だった。
 どのチャンネルでもアナウンサーたちが「私たちは東北のことを忘れません」と口を揃えて言う。それは結構だが、覚えているだけではダメだ。ワシャはこの1年で都合3回東北へ行った。わずかな回数でしかないが、今後も機会をつくって東北に行きたいと思う。忘れずに継続して支えることこそが重要なのである。

 その催しに出席していた国会議員が良いこと言った。
「瓦礫を皆さんも引き受けてください」
 まさにそのとおり。岩手、宮城の瓦礫には放射能の影響はない。それまで十把一絡げにして搬入を拒むのはバカである。陸前高田の松に放射能汚染はなかった。ところがバカな京都市民が五山の送り火にそれを拒んだ。

 陛下のお言葉にもある。
「国民皆が被災者に心を寄せ、被災地の状況が改善されていくようたゆみなく努力を続けていくよう期待しています。」
 西の各自治体はこぞって東北の瓦礫を受け入れよう。ノイジー・マイノリティの喚きなんかに耳を傾けずに。

 雪は西の雲から降っている。白い風船は、少し青空ののぞく東北の空に飛んでいった。東海人の万感の思いをのせて……。