奉天へ

 3.11を明日に控え、新聞もテレビも震災関連の話が盛りだくさんだ。だから、少し視点を変えて、景気のいい勝った話をしたい。

 1905年、明治38年の今日、満洲奉天の野において、ロシヤ軍32万、日本軍25万という空前の大兵力による会戦が行われた。世にいう奉天大会戦である。
 正確に言えば、奉天の会戦は3月1日に始まっており、今日は、奉天会戦が決着をみた日ということになる。このため、戦前は今日を「陸軍記念日」として、祝賀の行事をとりおこなったりしていた。

 さて、双方の兵力をみていただきたい。日本はロシヤに7万人の差をつけられている。ついでに砲の概数を述べておくと、ロシヤは1200門、日本は990門。その上に、ロシヤ軍は、ヨーロッパに配備されていた兵員を動員しているために質も士気も高く、後備の老兵までつぎこんだなけなしの日本軍25万との力の差は歴然としている。
 ところが日本軍は、この25万で10日あまりを戦い抜き、ロシヤ軍に勝つ。ううむ、勝つという表現は少し違う。辛勝をひろった、と言った方がこの会戦の場合は適切だと思われる。
 数値的に見てみよう。この会戦で死傷者の数は、ロシヤ9万、日本が7万であった。総兵力からその損害を差し引いてみると、ロシヤ23万、日本が18万で、この時点でもロシヤが優勢なのである。そして、日本軍18万は、奉天会戦を終えて、次の決戦をする余力を持ち合わせていなかった。全力を出しつくしていたのである。
 かたやロシヤ軍は、後備に大きな兵力を持っている。つぎ込もうと思えば、シベリア鉄道を使ってどんどん投入できる。
 運よく、ロシヤ軍の大将のクロパトキンが退却した。このことで世界からは日本が勝ったようにみえ、なおかつ日本は、立ち上がる体力もないくせに、ファイティングポーズをとり続けたため、辛勝ということになったが、まさに綱渡りのような勝ちを得た。

 この後、バルト海から回遊してきたロシヤ艦隊を叩きつぶし、陸海ともにロシヤに勝利する。この機を逃さず、日本政府はロシヤを講和の場に引きずり出すことに成功する。
 講和の結果は、必ずしも日本の狙ったとおりにいかなかった。それでも樺太を割譲し、ロシヤを満洲から追い出し、日本の朝鮮半島支配を認めさせ、満洲の鉄道の権益をも手中に収めた。今、考えれば上出来だと思う。しかし、当時の国民はこれをよしとせず、戦争続行をわめく群衆が日比谷公園に集まって、周辺の政府機関に焼き討ちをかけた。
 この事件以降、日本の針路は大きく変更をされていくことになる。

 東北の瓦礫受け入れに、ヒステリックになっているノイジー・マイノリティを見るにつけ、今も昔も、大衆を煽る一部の人間が時代を曲げていくんだなぁと思う。

 結局、最後は寂しい話になってしまった。ごめんちゃい。

 日記を書いていて、ふと思い当った。今日は「東京大空襲」の日でもあるわけなのだが、そうか「陸軍記念日」だからこそ、あえてアメリカはこの日に大空襲を実行に移したわけだな。あの大殺戮の背後には、そんな底意地の悪さもある。なるほど。