清盛と頼朝の違い

 NHK大河の「平清盛」が、地頭のない知事にけなされたおかげで、注目を浴びている。人間、どこでどう役に立つかわからないものだ。
 マヌケな知事のことはどうでもいい。今日の話題は清盛の曾孫である。名を六代丸、またの名を妙覚という。
 治承3年(1179)、清盛の嫡男重盛が没する。これが平家没落の予兆であろう。もっとも頼りにしていた重盛を失った清盛が治承5年に高熱を発して身罷る。大黒柱が相次いで折れた。こうなると没落は早い。年が2度改まり寿永2年(1183)ついに平家一門は、木曽義仲に追われ都を落ちていく。
 この時、六代丸は幼少のために母とともに京に潜伏した。しかし、文治元年(1185)、鎌倉方の探索で見つけられ、京都大覚寺で捕縛される。この時、六代丸12歳、この頃は数え年なので、10歳の少年ということになろう。
 武士の掟は「敵対勢力は根絶やしにせよ」である。当然のことながら、清盛直系の六代丸は摘んでおかなければならない筆頭と言っていい。鎌倉は事実、そうしようとした。しかし、僧文覚らの奔走により一命を助けられ、その文覚のもとで出家し、妙覚となる。

 曽祖父の清盛がこんなことを言っている。
「われ保元平治よりこのかた、度々の朝敵を平らげ、勧賞身に余り、悉くも帝祖太政大臣に至り、栄華子孫に及ぶ。今生の望み、一事も残るところなし」
 ううむ、清盛、この世で思うように生きて、望むことはないと言っている。なかなかここまでは言いきれるものではない。しかし、その後にこう続ける。
「ただし、思い置くこととては、伊豆の国の流人前の右兵衛佐(うひょうえのすけ)頼朝の首を見ざりつるこそ安からね」
 鎌倉の頼朝を始末しておかなかったことだけが悔やまれる、と言うのだ。

 清盛は、案外、いいやつかもしれない。ライバルの源義朝の子供たちを、常盤御前の色香に迷い、許してしまうのである。その甘さが、平家の滅亡を招いたことは言うまでもない。でもね、そこに清盛の人間臭さが余るあるほど滲んでいて、この傑出した英雄に親近感を抱かせているのである。

 清盛に比べると、頼朝はどうにも食えない男である。
 弟の義経を、政権の安定化のために衣川に追い詰めて誅滅する。
次に一旦は許した六代丸を鎌倉に呼び寄せ、建久9年(1198)2月5日に処刑してしまう。これで平家は根絶やしとなった。盤石となった鎌倉府はその後140年間の栄耀栄華を楽しむことになる。