『坂の上の雲』を観て思い出せ

 コラムニストの勝谷誠彦さんが、昨日のメルマガで、NHKの『坂の上の雲』をほめていた。司馬フリークのワシャも、このドラマだけは欠かさずに観ているが、NHK、なかなかよく頑張っている。青春ドラマの『江』とはえらい違いだ。
 先の日曜日は「旅順攻撃」と「二〇三高地の攻防」だった。風邪気味の勝谷さんは、「元気な状態で観ているならばきっと戦闘シーンに観入ったであろう」と前置きしながら、旅順郊外の民家に設置した参謀本部の「匂い」あるいは「空気」に拍手を送っていた。
《ここでもNHKの美術は見事ですね。「匂い」が伝わってくる。大陸の冬、暖は薪をくべてとるしかない。薪を燃やせば煙が出る。いくら煙突があってもその一分は部屋の中に漂う。(中略)それらの淡いヴェールのような空気を見事に映し出しているのである。》
 ワシャは元気な状態で観たので、やはり戦闘シーンを上げておく。これほど秀逸な戦闘シーンをテレビドラマで観たのは初めてだろう。爆発、跳ね飛ばされる兵士、飛び散る血、銃撃戦、銃剣による殺し合い、石で撲殺、噛みつき合い……と、かなり戦闘シーンはリアルだ。一昔前なら、ヒステリーの教育ママが「こんな残酷な映像を流すなんて!」
「僕ちゃんに悪い影響を与えるざ〜ます」「ただちに放映を中止するざ〜ます」と、ねじ込んできそうなぐらいよく作られている。
 あるいは今でも、NHKにクレームを入れているママゴンがいるのかもしれないが、そんな阿呆に負けるなNHK。

 でもね、これが真実に近いのかもしれない。真実ではないが、現実はもっと悲惨なのだが、斬っても血しぶきも上げずに倒れる侍や、殺されるとドロンと煙になる怪人など「嘘」なのだ。斬れば血が出るし、叩かれれば痛い。そういう現実を子供たちの目から遠ざけてきた弊害は大きく、だからこそこういった戦場の悲惨さを見せることの大切さを、声を大にして言いたいと思う。
 でもね、悲惨さんばかりではない。二〇三高地に日の丸が揚がった時、山頂から旅順港が見えた時、ワシャは感極まった。もちろん、107年前の12月5日に、二〇三高地の頂上に立った日本兵は震えるほどの感動を、身を持って体験したことだろう。これも現実である。

 ある言葉を引きたくて、今、早朝から『坂の上の雲』を読み始めていた。第5巻の「二〇三高地」の章をである。
上記の文「これも現実である。」から「ある言葉を引きたくて、」の間に1時間ほどの時間が経過している。読み始めると、ついつい読みふけってしまい、時間の立つのを忘れてしまうんですね(笑)。
結果として、引きたい言葉は見つからなかった。
薄っすらとした記憶で言うならば、
「近代国家というものは、国民に福祉を与えるばかりではない。時として国家のためにその命をも差し出すことを命じるものである」
 要するに、国民は国家に対し権利ばかりを主張するのではなく、重い義務を果たさなければならないものだ、ということを司馬さんは、この本のどこかで言っている。
 
 その指摘を踏まえて考えると、どうだろう、今日の日本には、国家にただぶら下がっているだけの人間が多すぎるのではないか。66年の太平の世に甘んじて、血を流してこなかった国民は、義務を果たすという観念が薄くなっているのではないか。『坂の上の雲』を観ていて、読んでいて、そんなことを思った。