追悼「勝谷誠彦」

 勝谷誠彦さんが逝去されたことは昨日の日記で書いた。あらためて冥福をお祈りするとともに、少しだけ勝谷さんに関して書き残しておこうと思っている。

 2004年、平成16年1月24日、この日は自分にとって極めて重要な日となった。おそらく人生の転機の日と言っていいだろう。
 この半年ほど前に、幼稚園の時から友人で、就職でまた一緒になって、ずっとつるんで仕事(遊び)をしてきた悪友が出張先で急死した。ワシャはそいつの背中を追って生きてきたようなところもあって、かなり落ち込んでしまった。夏にそいつが亡くなって、秋を過ぎ、12月に入ってようやく立ち上がる気力を取り戻した。
 ヤツは早稲田で4年間を過ごしていた。しかし下宿と大学の往復ばかりで、東京には疎かった。その点、ワシャは、田舎にずっと籠っていたので、上洛志向が強く、就職してからも理由をつけては東京に遊びに出かけていた。だからヤツに「おまえのほうが絶対に俺より東京を知っている」と言わしめたほどだ。
 悪友が亡くなって落ち込んでいた晩秋に、作家の日垣隆さんが主催するとんでもないセミナーが渋谷で開催されることを知った。東京に出る気力を失っていたワシャは、これがいいチャンスに思えて、そのセミナーに参加申し込みをした。これが伝説の16時間「朝までライター・セミナー」だった。
 おそらくこのセミナーに参加しなければ、その後の15年の人生は別のものになっていた。間違いなく今の状況にはなっていない。少なくとも、今、いろいろな交流をしているメンバーの多くは一生知り合うこともなく終わっただろう。もちろん日垣隆さんとも、勝谷誠彦さんとも。ワシャの広範なネットワークはこの時にできたと言っても過言ではない。
 そのセミナーの講師として勝谷さんは教壇に立った。開口はこうだった。
「どうもこんばんは。勝谷誠彦です。なんかあまりに、真面目な雰囲気が漂っていて、予期していたものと全然違って、予備校みたい」
 これで会場に詰めている生徒がどっと湧いた。ワシャも笑った。これが初対面だった……と、その時のセミナーの記録を、今、読み返していてのだが、はらはらと涙がこぼれた。記録の行間から、新進気鋭の若きコラムニストが立ち上がってくるのだ。
 セミナー会場の片隅で、ワシャは縮こまって日垣さんや勝谷さんの話を聞いていた。あれは15年前のことで、それから狂乱の読書人生が始まった。狂を発したのがあの日だったと間違いなく言える。
 セミナー後に事務局にお礼のメールを送ったのだが、そこには「今回のセミナーはまちがいなく私の年間大事件のトップになると思います」と書いてあるが、あまいな、年間どころか、その後の15年の人生の中でもトップのイベントになった。それほど強烈なセミナーとなって、その主催者の日垣さんや講師の勝谷さんに多大な影響を受け続けた。
 そのお一人が鬼籍に入られた。脳味噌が何分の一か持っていかれたような喪失感を味わっている。もう勝谷節が読めないのか、聴けないのか、見られないのか。悲しいなぁ。

 日本映画の名匠の小津安二郎が酒のことを「緩慢なる自殺なり」という名言を残した。勝谷さんと仲の良かった評論家の宮崎哲弥さんが「敢えて勝谷誠彦風にコメントするとするならば、酒をずっと飲み続けて、自死に近い死だったと思う」と言っておられた。ワシャも最期の勝谷さんを見ていると、まさに小津の言っていた「緩慢なる自殺」なのだと思う。なにが切れ味の鋭いコラムニストを自死に追い込んだのか。そのあたりを検証することも、残された勝谷さんを知る人々に課せられているのではないだろうか。