聖書塾

 毎度毎度、ウラシマさんの日記には助けられている。8月11日の日記に呉先生の聖書塾のまとめがアップされていた。
http://frompdk.blog.fc2.com/blog-date-20110811.html
 劣等塾生のワルシャワとしては、ウラシマさんのまとめを頼みの綱としている。深謝。

 今回は「マタイによる福音書」の後段だった。イエスの死に向かっていくこのあたりが聖書の一つのヤマ場となっている。講義の要点はウラシマさんの日記に詳しいので、そちらをご覧いただくこととして、ワシャは呉先生の講義を聴いて、妄想したことをいくつか書いておく。
 ペトロについてである。ペトロはイエスに言われる。
「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」
 この発言には前提がある。この頃、イエスはことごとくユダヤの上層階級と対立をしていた。下層民に「やがて神の国がやって来る。そして真っ先に神の国に入るのはあなたたちである」と説き回っている。ローマやローマと組んだ祭司、貴族などの搾取する側が見過ごせない危険分子と言っていい。ある種、イエスの実践していたことは、大衆的政治運動と見えなくもない。
 このことを予見したイエスが、過越祭の席上で、イスカリオテのユダに対して「お前が私を裏切る」と言うことになる。
 その後のシチュエーションで、イエスが一番弟子であるペトロに前述の台詞を言う。これに対しペトロは、こう抗弁する。
「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」
 イエスが捕縛され、最高法院で裁判を受けている時、ペトロは法院の中庭でおろおろしながら事の成り行きを見守っていた。そこで同席していた女中から「あなたもイエスの一味だ」と指摘される。
 ペトロはおたおたしたんでしょうね。
「あなたが何を言っているのか私には分かりません」
 と言い訳をしながらその場から逃げようと門の方に向かうと、別の女中らが「その男はイエスと共にいた」と証言をする。
 ペトロは「イエスなんて男は知らない」と3度否定して命を長らえた。

 さて、このエピソードを聴いて違和感を覚えた。はたしてこの展開が日本で起きるだろうか……と思ったのである。もちろん小人レベルには卑怯なヤツはいくらでもいるから、似たような卑近な例は山ほどあるだろう。しかし、1000年に1人という才能を持ったイエスの下に集まってくる素材である。それも将来「セント」が冠せられるようなレベルの人物の行動としてはあまりにも相応しくないと思うのである。なんだか脚色されているような気がしてならない。
 ミラノにあるブレラ美術館に「聖ペトロと聖パウロ」という絵がある。それに描かれたペトロは重厚な聖者の雰囲気を持っている。この人物が若かったとはいえ、自らの命のためにイエスを裏切って走り去ったとは思い難い。
 例えば、ペトロが、関ケ原石田三成と共に戦った大谷刑部や、明治天皇に殉じた乃木希典だったなら、こんな卑怯な行動には出なかっただろう。大谷や乃木といった大人物でなくとも、日本人には一種の潔さのようなものがあって、武士(もののふ)の魂を持っていれば、「私はイエスとともにある」と言うだろう。
 ブレラ美術館の「聖ペトロ」がショーン・コネリーのように恰好いいのでそんなことを妄想してしまった。
 
 うわわ……長くなっている。まだまだ妄想は続くのだが、今日はすることが山ほどあるのじゃ。この続きは、明日にでも。