松井石根(いわね)という歴史 その2

(上から続く)
 この南京事件には言いたいことはたくさんある。例えば、南京事件が「虐殺」だと言うならば、昭和20年3月9日から始まった都市部の木造家屋密集地帯に対して行われた「都市じゅうたん爆撃」はアメリカ軍による「民間人大虐殺」ではなかったのか……とかね。でも、話が逸れていってしまうので、松井大将の話に戻すけれども、老将軍は、不出来な兵たちの罪を背負って巣鴨プリズンの刑場の露と消えた。

 言いたいことはここからである。大衆のきまぐれについてである。戦時中、南京陥落の報を受けた国民はこぞって祝賀をした。もちろん、その主人公の松井石根の地元名古屋でも大騒ぎになったことだろう。そこで地元の有力者は松井大将に碑文を請い、立派な石碑を建立する。
 しかし、戦後、松井大将が戦犯として処刑される。すると地元民は一変し、その石碑を池に投げ込んでしまう。状況が変わればたちまち邪魔者扱いをする。大衆というのは気まぐれで残酷なものだ。松井大将と親しかった人々もみんな口をつぐみ、松井大将の存在自体がなかったことにされてしまった。
 1990年代、心ある人によって、松井石根の碑は泥の中から引き上げられ名古屋駅西口の町の片隅にひっそりと戻され、現在に至っている。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110211-00000052-jij-int
 今朝の時事通信が「南京虐殺の生き証人死去」のニュースを流している。生き証人がどんな証言をしたのかは寡聞にして知らぬ。しかし、自由も人権もない国で、国家権力におもねらない発言ができたかどうか。多分に国家のプロパガンダのスピーカーとして使われてきたと思われる。
 加害者も被害者も、大将も庶民も、歴史の大渦の真っ只中にあっては翻弄されるしかあるまい。後世、歴史を俯瞰することが出来る者どもは、できるだけ冷静に、できるだけ客観的に歴史的事実を探っていくことが大事だと思う。

 あ、今日は2月12日だ。菜の花忌、司馬遼太郎の旅立ちの日でした。せっかくだから司馬さんの本をなにか読むことにしようっと。