松井石根(いわね)という歴史 その1

 松井石根という愛知県出身の軍人がいる。戦犯として極東国際軍事裁判にかけられた25人のメンバーの一人である。罪科はBC級であるから「殺人及び共同謀議の罪」ということになる。その中でも、松井大将は、いわゆる南京事件の際の司令官だったことを問われた。この責任により死刑に処せられたわけである。
 連合国は、日本国をナチスドイツと同列のものとして裁いた。BC級裁判では、920人もの軍人・兵士が死刑になっている。中には捕虜にゴボウをごちそうしたことが、「木の根を食わせた」という捕虜への虐待と見なされ死刑となった例もある。
 そもそも、松井大将は死刑に処せられるほどの悪逆非道の軍人だったのか。まず、A級の罪科である「開戦責任」については松井大将の当時の立場から言って問えないことが明白で、だからBC級なのである。
 松井大将をおいておいて、A級戦犯全員に言えることなのだが、開戦前夜に連合国側がどれほどの圧力を日本に対してかけてきたことか。外交戦で開戦ギリギリのところまで追い込んでおいて、「開戦責任」を日本側だけに押し付けるやり方は汚い。「開戦」は追い込まれた結果であって、そういう意味で言えば「開戦責任」は連合国にも支那にもある。
 話を戻す。
 松井大将の罪科が「南京事件の不始末」であると言うならば、まず南京事件の全容を解明するべきである。確かに日本軍と蒋介石軍の戦闘により民間人が巻き添えをくったことは否定できない。しかし、それは近代戦ではどうしても避けられないことだった。
 それに支那兵は「便衣兵」という民間人に紛れ込んで、背後から攻撃してくるゲリラ戦を常套としていたのである。大混乱の中で兵士と民間人の峻別は極めて困難と言えよう。
 松井大将は軍規に厳しい指揮官だった。それでも将校、士官、下士官、兵の末端まで統制することは難しかったようだ。そのことについて、死刑が確定した時にこう言っている。
「せっかく皇威を輝かしたのに、あの兵の暴行によって一挙にそれを落としてしまった。(中略)当時の軍人たちに一人でも多く、深い反省を与えるという意味で大変に喜ばしい」
(下に続く)