「胡麻の油と百姓は、絞れば絞るほど出るものなり」
と言ったのは、徳川吉宗に仕えた神尾春央勘定奉行である。吉宗のおこなった「享保の改革」を裏で支えたのが春央だった。
春央、元々は下嶋という貧乏旗本の次男某である。そのまま下嶋家にいれば部屋住みとして肩身の狭い一生をおくらねばならなかったろう。ところが運のいいことに、同じ旗本の神尾家に跡取りがいない。下嶋家が采地500石、神尾家が蔵米200俵なので、ほぼ同輩と見て間違いない。神尾家の当主である春政は、才気溌剌とした春央に目をつけて養子にした。春央にすれば「しめた」と思ったに違いなく、ここから春央の出世人生が始まる。
神尾の義理の父も祖父も旗本の大部屋である小普請組だったから閑職といっていい。どちらかといえば無能な人たちだったろう。ところが春央は違った。15歳で御腰物方に配属となる。その後、御細工頭、御賄頭、御納戸頭と出世し、200俵の加増を受けている。その後も出世を続け、御勘定吟味役を経て、ついに元文2年6月1日(ここが今日とからんでいるわけですわ)、勘定奉行に列せられる。春央50歳であった。同じ年の12月に、従五位下若狭守に叙任され、貧乏旗本の養子は1500石の大旗本になったのである。
春央の出世を支えたのは、数字に明敏な頭脳と、百姓を胡麻程度にしか見なかった冷酷な性格にあったことは間違いない。その苛烈な行政手法を、やはり数字に細かかった吉宗は愛したというわけだ。
享保の改革という幕府財政建て直し政策の陰で多くの百姓が苦しんでいる。百姓にとって暴れん坊将軍はけっして名君ではなかった。