維新の元勲に三条実美という公家がいる。平時であるなら貧乏ながらも妻の実家の土佐山内家から援助を受けながら、管絃、和歌、香道、書道などをたしなんで平凡な一生を過ごしたに違いない。
しかし時は風雲急を告げる幕末、尊王攘夷に燃える長州藩に担ぎ出され、攘夷親征の矢面に立たされてしまった。これがそもそもこの心優しき公家の悲劇の始まりである。ただ孝明天皇の側近として政局に関わっていた頃は、尊王攘夷派が京都を制圧していたので、それでもよかった。だが、文久3年(1863)の8・18クーデターにより、公武合体派の巻き返しがあり、京都から追放されてしまった。いわゆる「七卿の都落ち」である。ここらあたりから波乱万丈の半生に突入していく。
翌元治元年(1864)には長州征伐に巻きこまれ、長州派公卿として処断される。このため大宰府に3年もの長きにわたり幽閉されてしまう。
そして維新がなる。実美、急遽、召し出されて新政府の要職につく。副総裁、外国事務総督、関東監察使、右大臣と出世し、明治4年に太政大臣になる。実美34歳である。
位人臣を極めても実美の苦労は続く。征韓論で西郷隆盛と大久保利通の対立に巻き込まれてしまう。そのあたりのことは、司馬遼太郎の大著『翔ぶが如く』に詳しい。廟議でも西郷と大久保・岩倉が真っ向から激突し、それをおろおろしながら見ている主宰の実美の姿が浮かぶようだ。
実美の写真がある。軍服を着ているから晩年のものか。公家特有のうりざねの顔に誠実そうなつぶらな瞳を持っている。この写真からは、この人、いい人に見える。
明治24年(1891)の今日、その当時に流行していたインフルエンザに罹患してあっけなく死ぬ。享年55歳だった。
せっかくなんで(なにがせっかくかわかりませんが)、藤田覚『幕末の天皇』(講談社選書メチエ)を読むことにする。
あっ!今日は歴史学者の平泉澄の命日でもあった。忘れておりましたぞ。