腰パン国母と幕末の話 その2

(上から続く)
 ここからが本題である。
 武市の在籍した士学館に凄い剣士がいた。名を岡田以蔵という。土佐の軽輩で武市の舎弟といっていい。司馬遼太郎の短編に岡田以蔵を主人公にした話がある。そこからエピソードを引く。
《畳五畳をへだて、かあーっ、と痰をとばすと弾丸のように飛び、むこうの紙障子を突き破ったというから、よほど肺や胸筋、腹筋の力がつよかったのであろう。》
 これが岡田以蔵である。彼の剣は「※撃剣矯捷(げきけんきょうしょう)なること隼の如し」と評された。抜群の運動神経と鋼のような筋骨に恵まれていたから隼の異名をとった。評伝を見る限り、師の武市よりも剣技は鋭かったに違いない。のちに彼が京洛の剣士を震え上がらせる暗殺者に化生していくことを考え合わせれば、間違いなくこの時代のトップアスリートといっていいだろう。
 しかし岡田以蔵、圧倒的な強さを誇りながら、士学館での評価はすこぶる低かった。要するに剣技を極めることだけに没頭し座学を軽視したことによる。あわせて元来の育ちの悪さによる品格の無さが祟った。
 同時代の剣という種目のトップアスリートとして武市、桂、坂本らと肩を並べているにも関わらず、その人格には天と地ほどのひらきがあったのである。

 朝青龍も、亀田興毅も、国母和宏も、「ただ強ければそれでいい」という現代の岡田以蔵である。岡田以蔵の醜怪な事歴を見れば、朝青龍、亀田、国母の行動に合点がいく。
岡田以蔵の末裔だからああいう行動をとるのか」ということなのである。
 江戸の人々は賢明だった。品格のないアスリートなど相手にしなかった。どんなに強かろうが似非剣士を評価などしないのだ。「強ければいいんだ」と彼らを持ち上げることは、岡田以蔵を誉めそやすことと同じである。だから、どれだけ強かろうとワシャは朝青龍、亀田、国母の3人に共鳴することももてはやすことも絶対にない。それがまともな人間の自恃(じじ)だからである。

 腰パン国母がメダルを取ると、今まで批判的だったマスコミの態度はがらりと変わるんだろうな。今のマスコミには視聴率さえ稼げればいいという卑しさが蔓延って矜持も誇りもないからね。

※撃剣矯捷(げきけんきょうしょう)なること隼の如し=剣の強くすばやいことがはやぶさのようだ、という意味です。