篠山散歩

《篠山の朝は寒かった。
 丹波の山波に立ちこめる朝霧というのは有名で、丘に立つと霧が谷々をうずめ、あちこちの峰が海に浮かぶ島のようになるというが、この朝は霧が立たなかった。》
 司馬遼太郎丹波篠山を愛していた。『街道をゆく四』(朝日新聞社)の中で30数ページを割いて篠山を語っている。
 司馬さんは、篠山市街で一泊して翌朝、篠山城東の河原町妻入商家群の中にある丹波古陶館を訪ねている。もちろん司馬ファンで陶器の好きなワシャにはそこは外せないスポットだ。
 この日も朝は冷えた。ピンと張り詰めたような冷気の中、キャスターバッグのゴロゴロ音を商店街に響かせながら丹波古陶館に向った。店先で掃除をするおばあさんから不審げに見られても、愛想よく会釈しながらようやく目的の場所に辿りつきましたがな。

 おおお!『街道をゆく四』の215ページにある須田画伯の絵のとおりだ。白壁の土蔵造りの建物に挟まれて門を潜ると細長い中庭が延びている。この白壁に囲まれた庭を須田さんはここに立って描いたのか……ということは司馬さんもこの辺りをうろうろしながら「早速、丹波焼を見せてもらいましょか」などと言いながら古丹波と対面したんでしょうね。
《焼きあがるのに半月もかかるが、そのかわり灰や山肌の土を熔かしこんで自然釉が壷などにくっつくためときに妖しいばかりの肌をもった壷があらわれる。》
 司馬さんが「妖しいばかりの肌」と言った古丹波は江戸初期に造られた「赤土部釉徳利」のことではないだろうか。高さ39センチ、胴径29センチ、底径18センチ、の鶴首で滑らかな肩と均整のとれた丸い胴を持つ。肌は熟れた石榴のような赤茶色でその上に灰釉が降りかかり金彩の如く輝いている。客はワシャしかいない。あまりの妖しさに暫しそこに立ち尽くして見惚れてしまった。
 その他にも「流釉窯変四耳壷」(江戸初期)や「自然釉三筋壷」(平安時代)などの名品が並んでおり、これは見逃せませんぞ。