こんどこそ東京散歩―神楽坂界隈―

 くどいようだが、日垣さんのセミナーの会場は、神楽坂善国寺(毘沙門堂)脇の地蔵坂を南に上がったところにある日本出版クラブ会館というところだ。江戸のころ……には触れない。だったら明治だよね。
 明治期の神楽坂である。今、明治11年内務省地理局作成の「実測東京全図」を見ているのだが、いやぁ、この頃の東京は実に狭かったんですな。神楽坂を越えて天神町(地下鉄神楽坂駅の西)を過ぎると、見渡す限りの田地田畑である。早稲田など人家もまばらで狐狸の棲家だった。この辺りが東京の西外れということになりますか。
 明治2年のこと、新政府は旧武家地を上地させた。すでに徳川幕府はなくなっており、その政権を支えた侍たちは元将軍とともに駿府に移住している。多分、神楽坂界隈の御徒衆も家屋敷を捨てて駿府に下ったのだろう。その土地の処理に困った新政府は策もなく、その場の思い付きで「殖産興行と窮民授産」というお題目を考えつき、空地に桑、茶の植付けを奨励したのである。だから神楽坂界隈にも桑畑、茶畑が現出した。
 この阿呆な施策を実行したのが、大木喬任(たかとう)東京府知事だった。写真を1枚だけ知っているが、レオナルド熊に似ている。あまり切れ者という感じではない。寡黙実行、清廉潔白、篤実な人柄で事務屋としては有能な人材だったのだろう。藩閥人事の均衡から佐賀藩を代表して要職についてしまったが、はたしてそれが本人にも民にもよかったのかどうか。残念ながらこの人物、政治家としてはまったく光らなかった。打った政策が桑畑、茶畑だもの……
 生き生きとした明治の神楽坂が、田山花袋『東京の三十年』(岩波文庫)に書いてある。
《牛込で一番先に目に立つのは、また誰でもの頭に残って印象されているだろうと思われるのは、例の毘沙門の縁日であった。今でも賑やかだそうだが、昔は一層賑やかであったように思う。何故なら、電車がないから、山の手に住んだ人たちは、大抵は神楽坂の通へと行ったから……》
《神楽坂の通に面したあの毘沙門の堂宇、それは依然として昔のままである。大蛇の見世物がかかったり何かしたときの毘沙門と少しも違っていない。》
 今の神楽坂は花袋が感動した頃と比べてずいぶんと変わっちまったんでしょうね。
 因みに縁日に夜店が出るようになったのは、この毘沙門様が始まりなんだそうですよ。