調査は続くよ、どこまでも〜♪その1

 三重県のHさんから「『高野源左衛門』という名前がネットにありましたよ」という情報をいただいた。その情報によれば高野源左衛門は下野国(栃木県)那須郡馬頭町に縁のある人物らしい。
 昨日、見ていた神楽坂界隈の絵図は、嘉永4年(1851)製のものだから、そこに載っている人物が1800年に完成している『寛政重修諸家譜』にあるはずはない。そんなことにすら思い当たらなかったとは、寝不足というのは恐ろしいのう。
 さて、それでも『寛政重修諸家譜』である。高野姓を調べてみると旗本に二家あった。高野一郎左衛門家と高野治右衛門家である。厄介なことにこの両家とも御徒(おかち)なのだ。つまり両家とも御徒が集中する神楽坂界隈に屋敷を構えている可能性は高い。どっちなんだ。
 ということで、もう少し読みこむと以下のことが解った。
【高野一郎左衛門家】
○代々通称に「左衛門」を使用している。
○四代目の勝安の時に男子が絶え上野家の三男を養子としている。
○高野家の南隣が上野家である。
○四代目の勝安は小石川源覚寺に葬られた。
○六代目の武富は関東の河川の普請を担当していた。
【高野治右衛門家】
○五代当主利氏が市谷妙典寺に葬られている。
 このことからどうも高野源左衛門は一郎左衛門家の末裔である可能性が高ぃのー。治右衛門家は情報がなさ過ぎてどうしようもない。
ワルシャワはこう見る。
 代々、地蔵坂の屋敷に住まう御徒の高野勝安は男子に恵まれなかった。このままでは家が絶えてしまうので、日々隣組として昵懇にしていた隣家の上野政忠に相談して政忠の弟武之を娘と娶わせ養子とする。
 武之以後、高野家は続き、六代目の武富が関東河川の普請方となって那珂川の治水に関与したのだろう。
(下に続きます)