『信長軍団に学ぶ処世の法則』(PHP研究所)を読んだ。
著者は、『信長の棺』や『秀吉の枷』を書いた晩成作家の加藤廣さんである。加藤さん、中小企業金融公庫調査部長、山一証券経済研究所顧問などの肩書きをもつエリートサラリーマンでもあった。この方が現在の「成果主義・能力主義」に対して疑問を呈しておられる。
《能力主義には、年齢とか学歴というような客観的尺度がない。「アイツはできる」という漠然たる評価の集合量でしかない。》
そりゃそうだわな、企業にしろ行政にしろ部門が多岐に渡っていて、それを統一的に評価するモノサシなどあるわけがない。例えば営業職と資材部門と人事管理部門の社員を同一基準で評価するのは不可能だろう。
唐の詩人韓愈はこう言っている。
「世に伯楽あり、然るのちに千里の馬あり、千里の馬は常にあるも、伯楽は常にあらず」
能力のある者(千里の馬)は居るけれど、それを認める人(伯楽)が常には居ない、ということなのだ。成果を客観的に認める人がいなければ、適正な評価はされない。
それに人間というものは自分に甘く、実際よりも高く自己評価をすることが多い。その結果、他者が適正な評価をしたとしても自他との評価ギャップで、結局のところ不平・不満はつのるのである。
「成果主義」を声高に叫んでいる人事担当者も多いが、お前ら、本当に「成果主義」なるものを消化してモノを言っているんだろうな。
かつてこんなことがあった。Aという真面目な社員が同期にいるのだが、彼の課にBという課長が異動でやってきた。B課長は社内でも有名な問題課長で、自分の無能さと小心な部分を隠蔽するために部下を叱り飛ばし、ときには暴力もふるう男だった。
このB課長にAが逆らった。このためAの勤務評価はほぼ0点となった。客観的に見ても、非は全面的にB課長にあるのだが、残念ながら評価をするのは上司なのである。どう見ても80点くらいの仕事をこなしていたAが0点で、部下の仕事を邪魔していたBの評価が及第の60点では納得いかないよね。
でもこれが組織の中の常識ってやつだからどうしようもない。少なくとも愚者が人の評価をしているようでは、成果などというものはいい加減なものでしかないと思うよ。