ヤト田

 司馬遼太郎三河国のことを山深い国と形容した。確かに三河は岡崎以西の碧海台地と豊橋周辺のわずかな平地を除けば、そのほとんどが樹相の濃い山々である。中世、その山国のわずかな細流を頼りにして人は山系に分け入り水田を作った。
 三河山間部を旅したことがあれば、山の斜面に沿って段々に織られた田んぼをあちこちで目にしたことがあるだろう。これをヤト田と言う。
 中世の風景として、三河の山国は賑わっていた。
 北設楽郡には設楽荘、富永荘、冨永保、冨永御薗、足助荘、設楽杣がある。その中の富永荘を構成している邑の名が清水正健の編じた「荘園志料」に載っている。古戸や月(どちらも東栄町の小集落)などである。今ではうらさびしい寒村でしかないが、この当時の豊田市南部から安城刈谷といった地域が、一面の草ばやで狐狸の住処だったことを思えば、いかにこの地が殷賑であったかが窺える。
 設楽町に田口という集落がある。
 既に中世、田口は田口町と記載されている。信州方面と三河湾岸部を中継する衢地としての役割をすでに千年も前から担っていたのである。
 中世末期、北設楽はしばしば騒乱の舞台となった。北の甲州勢、東の駿河勢、そして三河に勃興した松平の勢力に挟まれて翻弄されつづけた。なぜこんな鄙びたところを取り合ったのだろうかと、かつては思っていたが、考えてみれば中世の産業地であり、人口集積地であり、それに加え地勢上の要衝であったのだ。
 話をもとに戻す。
 ヤト田のことである。大げさに言えば江戸時代という世界的に見ても稀な平和な時代を醸成したのは、実はこのヤト田ではないかと思っている。以前に徳川家発祥の地、松平郷(豊田市松平町)を訪なったことがあるが、その里の山の斜面にはささやかな水の流れに支えられたヤト田が広がっていた。このヤト田で収穫される米が松平党の腹を満たし、松平一族の南下政策を支えた。
 1400年代、松平の山人は岩津を押さえ、安城に出て、そして力を蓄えて岡崎をその手中に治める。そのことが後世九代目にあたる家康をして天下を掌握する基礎となったことは周知のとおりである。
 そう考えれば、三河山間部のヤト田の風景が平和な近世をつくったと言っても過言ではあるまい。