昨日の午前中、名古屋の某大学で打ち合わせがあって、急きょ行ってきた。
地下鉄名城線を八事で降りて、久しぶりに山手坂を北に上った。秋晴れのいい日で、仕事でなければ興正寺公園あたりを散策するのだけれど……。
でもね、八事という街は活気があっていい(ここで言う八事というのは、八事交差点周辺ということで、広義の八事ではない)。周辺に大学がたくさんあって、午前9時頃だったけれど、学生が街中にあふれていた。ワシャがこの界隈をうろうろしていたころは、線香臭いあか抜けない坂の町だったが、今では洗練されたオフィス街のようになっている。時代は流れているんだなぁ。
八事ってけっこう変わった地名だと思う。元は鎌倉くらいまで遡るらしい。このあたりは名古屋の東部丘陵で、その頃の水田というのは三河の松平郷と同様に、細流の水を集めることのできる谷あい農業だった。だから丘陵地であるこのあたりもそういった小さな田が何枚も棚になっていたに違いない。その田圃に石が多かった。田を打つとごろごろと岩石が出てくるのである。そういうところを「石田」とか「岩田」などと呼んだ。このあたりでは「岩之田」(やがた)と言われていた。そこから転訛して「やがた」が「やがと」そして「やごと」になった。
この八事に興正寺がある。先般、「ハローワークで募った僧侶見習いに、1人で死者を弔わせていた」と、手抜き葬儀が話題になったのを覚えていますか。まぁ坊主が金儲けにはしるのは最近始まったことではないので、大して驚きもしませんでしたがね。
その八事興正寺、江戸期は尾張徳川家の庇護をうけて興隆してきた。この寺、軍事的にも重要な位置にあった。そもそも尾張徳川家を名古屋城に据えたのは、西国の豊臣系の大名に備えるためだった。名古屋平野で迎え撃って、そこで敗北した場合、東に引いて、最初の峠となる八事の興正寺を軍事拠点として戦う。背後には岡崎があり、三河武士団が控えている。三河から兵站の支援を受けながら、名古屋の東部丘陵ラインで敵を食い止める、そういった戦略構想が実際にあった。一旦、西軍が攻めいって、平城の金鯱城が落城したとするならば、この界隈で矢弾が飛び交ったに相違ない。そういった史実があるならば「矢事」と呼ばれたに相違なかろうが、これはワシャのでっち上げなので信用しないでね(笑)。
秋の風に吹かれて、いろいろと考えながら歩いていたら、歩道の縁石につまづいてしまった。
しまったしまった……あ、そうそう、歌手の島倉千代子さんがお亡くなりになられたんですね。これで島木譲二のギャグは封印になるのだろうか。