平時の残酷

 日曜日に大河ドラマ新選組!」が最終回を迎えた。史実とは大きく違っているところが随所に見うけられ、歴史をよく知るものからは「そんなことはなかった」というところばかりで、かなりいかげんな物語である。だが三谷幸喜の創作劇だと思えばそれなりに楽しめた。
 ドラマを離れて新撰組のことを考えてみる。江戸の小汚い町道場にくすぶっていた若者たちが幕末という時宜を得て、京都という新天地に活路を見出す。少なくともそのまま江戸で過ごせば、名もなき市井の人として天寿を全うしたに違いないのだろうが、上洛をしたために風雲にのった。このために寿命は縮めることにはなったが、歴史に永くその名を残すことになった。ある意味であの若者たちにとっては本望だったのだろう。
 新撰組を遡ること160年、やはり本来なら無名でその人生をおくるはずだった47人の男たちがいた。狂気の主君と幕府の偏った裁決という千載一遇の機会を得て、男たちは歴史に名を留めるビックプロジェクトに参画することになる。忠臣蔵の四十七士である。
 平時においては、その身を賭して大きな企てに参加するというチャンスはなかなかない。野望を持つ若者たちの多くが体の中から沸騰するエネルギーを必死に押せこんでいるに違いない。乱世でなければ野望だけでは世に出られない。斉藤道三のような野望の固まりのような男には平時に成すべきことはないのである。