1714年の3月5日、大奥年寄の絵島が信州高遠に流罪となった。徳川実紀には、彼女の罪状が縷縷述べられている。
「この日女房絵島遠謫(えんたく)せらる。これは後閣にておもたゞしき職つかふまつりながら。身の行ひたゞしからず」で始まり、遊業にふけり、ゆかりもない家に宿泊し、劇場に遊び、俳優となれむつみ、娼家に立ち寄り、娼婦をむかえ、酒宴をひらいた。だから悪い女だと、糾弾している。死罪2、改易2、流罪10、追放5、親類預け67、連座したもの1500人という大疑獄事件に発展した。
だが元を正せば、風紀紊乱罪のたかが役者買いである。五代綱吉の時代でも、珍しいことではなかったし、裁く側にいる老中の秋元但馬守は、綱吉のもとで「大奥担当」だった人物である。酸いも甘いも知り尽くした老中がいて、なお、この厳しい裁断となった背景には、大奥と出入商人の癒着問題や将軍をめぐる権力争いがあったことは間違いない。その責を一手に被せられたのが絵島であった。
現在でも、権力争いによるこの手の粛清は相変わらずである。記憶に新しいところでは、藤井治芳道路公団総裁解任騒動である。藤井の独裁体制は確かによくない。藤井は改革派の職員を四国など遠方へすっ飛ばしたりしている。しかし藤井がいなくなれば、それとばかりに報復人事が横行し、藤井派残党の処分が始まっているのである。300年経っても権力争いの本質はなんら変っていない。
ただ腹は切らないでいいので、責任をとらされても皆さん生きている。藤井はタフだから、解任処分の取り消しを求め訴訟を続けるという。まだまだお元気だ。
山に流された絵島はというと、終生この桜の里でひそやかに暮らした。木曽の山々を眺めながら、権力というものが、いかに理不尽で下らないものかを痛感したことだろう。あるいはそんなつまらないことは早々に達観して、花でも愛でて暮らしたのだろうか。
高遠の桜は四月中旬が見ごろだという。また花見酒でも飲みに信州路に出かけようかな、と思っている。