本の留書き

 このところ睡眠不足が続いていたが、久しぶりに夕べは熟睡した。いい酒を飲んだおかげだと思う。

 1月14日の日記
http://d.hatena.ne.jp/warusyawa/20130114/1358126966
に、日本近代砲術の祖、高島秋帆(しゅうはん)のことを書いた。たまたま昨日、勝海舟の『氷川清話』を読んでいて、秋帆の話が出てきたので書き留めておく。
 勝は秋帆を「具眼の士、大胆剛腹の人」(見識の高い人、大胆で度量の大きい人)と評価している。その上で秋帆をおそった理不尽な事件に触れている。
《秋帆は世間の人の誹るのをも顧みず、自分の財産を擲(なげう)つて、この銃陣というものを習ひ、大いに得るところがあつた。》
 銃陣というのは、銃兵や砲兵で組織された隊で構成された陣のことで、簡単に言えば銃兵、砲兵のフォーメーションのようなもの。これをドイツ軍の武官から習得した秋帆はもちろん日本での銃砲の第一人者ということになった。もちろんその力量を幕府、各藩とも認め、少しく天下の形成を分かっている人は、こぞって秋帆の門を叩いたものである。
 しかし、旧来の兵術家どもは新しい理論、技術をおいそれとは認めない。なんやかやと非難、誹謗して秋帆を引きずりおろそうとする。男の嫉妬に古今東西の差別はない。
《秋帆が冤罪に陥つて入獄するやうな不幸な目に遭ったのは、畢竟(ひっきょう)反対派の仕業で、本庄茂兵次、神代惣太郎などといふ男の讒言を、時の三奉行の一人の鳥居甲斐守が取り上げたからだ。》

 いつもどおり話が逸れるが、この文中にある鳥居甲斐守のことである。徳川幕府の後半に大弾圧が二度あった。ひとつは「安政の大獄」であり、もうひとつは「蛮社の獄」である。安政の大獄は、井伊直弼の側近の長野主膳が扇動し、蛮社の獄は、水野忠邦の片腕の鳥居甲斐守が暗躍した。
 そもそも教科書では水野忠邦の「天保の改革」を良いことのように記載しているが、とんでもない話で、能のない厳しい倹約令で武士、庶民をぎゅうぎゅうと締めつけただけの天然阿呆の改悪、略して「天呆の改悪」と言っていい。
 後に鳥居甲斐守は水野の反対派に与して、水野を老中罷免にまで持ち込む。それは保身のためでもあったのだが、これが裏目に出た。水野忠邦が1年の後に老中首座に返り咲いてしまう。ここからは水野の報復人事が始まる。鳥居は勘定奉行町奉行の職を解任され、清水口の門番にまで落とされてしまう。
 弘化2年(1845)10月3日に水野の粛清は完結する。鳥居甲斐守は京極家にお預けとなり、その仲間もことごとく他家に囚せられる。その後、鳥居は明治になるまで、実に23年の間、四国丸亀において監禁生活を強いられた。
 この間、高島秋帆のほうはというと、幕末維新の風雲の中、馬車馬のような働きを見せている。
 勝海舟は、高島秋帆について語るとともに、酷吏として一時代を生きた不遇な男に対してもその印象をこう書き残した。
「この人監察たりし時より、残忍酷薄甚だしく、各官員の怨府となれりといえども、その豪邁果断信じて疑わず、身をなげうってかえりみることなく、後、罪せられて囹圄(れいご)にある事ほとんど三十年、悔ゆる色なく、老いて益々勇。八万子弟中多くかくのごとき人を見ず」
 酷吏は勝も認めるところである。幕府の官員から怨みが集ったが、信じたことは断固として実施したのだろう。公務に際しては純粋で真っすぐな秀才だった。後に勢力争いに敗れ、囹圄(牢屋、牢獄)に30年(文を飾るために23年ではなく30年としている)、まったく反省することなく老いてなお元気だった。こういう爺さんいますよね(笑)。最後の八万子弟は、徳川家の属僚「旗本八万騎」のこと。その中にこういった頑固な男はなかなかいない、と結んでいる。
 最後の部分は、勝の優しさがにじみ出てきて、最後の幕臣として、鳥居の23年間の囹圄の苦しみに報いたのかもしれない。
 でもね、鳥居甲斐守の日記などを読むと、幽閉生活といえどもそれなりの自由はあったようで、江戸から遠い讃州でしぶとく強かに生き続けたのである。
 話は逸れたままで終わってしまった。ご寛恕くだされ。

 蛇足ではあるけれど、今日は勝海舟の命日である。