上記のタイトルで、「ワルシャワ、今日はあのネタを持ってくるんだな」と分かった人は漱石・・・間違えた、流石。
司馬遼太郎の名作『坂の上の雲』の初っ端の第1章の題が「春や昔」であり、ここで故郷を愛でる句を出してくる。
春や昔十五万石の城下かな
《多少あでやかすぎるところが難かもしれないが、子規は、そのあとから続いた石川啄木のようには、その故郷に対し複雑な屈折をもたず、伊予松山の人情や風景の伸びやかさをのびやかなままにうたいあげている》
司馬さんの句評である。
ワシャもこの句は好きでんねん。それにしても大きな季語で、すべてを「春」が覆ってしまう。「昔」も多くのものを包含する。「春や」で詠嘆し、「昔」に続けて「十五万石」とくれば松山の人々は「松山のことぞなもし」と言うに違いないが、そうは問屋が卸してくれない。幕末の段階で、日本には5つの15万石大名がいた。もちろん伊予松山藩、その他に豊前小倉藩、播磨姫路藩、越後高田藩、出羽米沢藩である。
夏井いつき先生なら、「場所が具体的に特定できませんね」とか言うのかなあ。
これが東北で詠まれた句であれば、米沢城の風景になるだろうし、姫路ならあの巨大な城郭が脳裏に広がる。でもね、あまりにも有名なこの句は、まさに松山のものであり、ワシャらもこの句を見れば、あの穏やかな小山の上の金亀城(別称)を思い出しますわなぁ。
7月9日の日記に書いた松平定政。刈谷藩2万石を返上し、出家してしまった変わり種のことを書きましたが、その兄貴の定行が松山15万石の祖であった。だから、ひるがえって考えると松山にも三河・尾張の血脈がずっと流れていることになる。
さて、話は本題からどんどんと離れていってしまった。今日、書きたかったのはこれだった。
《松山市で土砂崩れ 行方不明者捜索続く【愛媛】》
https://news.yahoo.co.jp/articles/f803eae44b89c3277fbce72c24dcaa085dd10c51
被災された皆さんにはお見舞い申し上げたい。まだ使っていない方たちの無事をお祈りする。
このニュースの第一報は12日の朝だった。「松山市で土砂崩れ」と聞いて、道後温泉の北東の山地とか市の南部の浄瑠璃寺、松山城跡方面の山で起きたのかなぁと思っていた。
ところが土砂崩れは松山城の北東斜面で起きていた。いやはや~。
ワシャは以前に仕事で松山市を訪れている。複数の同僚と行った。仕事を終えて、「どこかで慰労を兼ねて食事でも」ということになった。ただどうしてもワシャは行きたいところがあって、食事メンバーと別れて行動をする。単独行動は、まぁいつもなんだけどね(笑)。
松山城の南に「坂の上の雲ミュージアム」がある。ここへ行きたかった。それでも仕事を終えてからだったので、入場締め切りまでそれほど時間がなかった。なんとか間に合って、じっくりと館内を見て回ったのだが、結局、すぐに閉館の午後6時30分になってしまった。売店の前でうじうじしていると売店の女性が「いいですよ、ゆっくり見てください」と言われて、土産物を物色する時間をいただいた。でね、最終的にワシャは正面玄関からは出られず、裏の通用口から外に出たのでした。まぁそれもいい体験になった。売店の女性に何度もお辞儀をしながらミュージアムをあとにしたのだった。
外に出て、同僚に電話を入れると、松山城の北にある居酒屋で飲んでいるということだった。だからワシャは市電の通る大街道を、いよてつ会館のところで左に曲がって、ちょうど松山城をぐるっと回りこむようなかたちで北上した。秋山兄弟の生誕地を右に見て、加藤嘉明の騎馬姿を左に見て・・・そうそう、この嘉明が松山城を築城したんですね。この人、秀吉の家来で「賤ケ岳の七本槍」と言われた豪傑で、その後、関ヶ原の時に上手く立ち回って、伊予20万石の太守に収まった。嘉明のおとっつあんが三河の生まれだったが、あまり関係ないか。
その先の五差路を左に折れて、城山を左手に見ながら街路を歩く。二回ほど曲がって広い道路に出、その道を西に進むと、左手から正面までを城山に阻まれてしまう。道は大きく右にカーブしている。45度曲がって45度曲がる、この特徴的な曲がり角が印象に残っていた。そこで城好きのワシャは周囲を見回している。でもね、斜面に木は鬱蒼としていたけれど、土砂崩れが起きるような印象は受けなかった。住民の皆さんもまさに青天の霹靂だったに違いない。
そんなことをニュースを聞いて思い出している。