病膏肓に入る

 この国の危機管理は、すでに「病膏肓に入る」という状態になっている。

尖閣巡視船、一時航行できず 昭和55年建造…老朽化で故障か》

https://news.yahoo.co.jp/articles/f681a5b25e99f3051f5ebace94ad8c039024c00c

 今、日本の国家的危機の場所はと言えば、尖閣諸島が筆頭であることは、普通の常識の知識をもっておられる方なら、当然、そう指摘されるだろう。しかし、これが現実はこれだ。戦艦を白く塗装をして警備艇と称している中国共産党の海警、それと真剣で鍔ぜり合いしているのが40年前の巡視船?それが《任務中に故障し、一時、航行不能状態に陥っていた》って、ブラックジョークか!

 海上保安庁にも、国土交通省にも、政府にも危機感というものがない。老朽艦に、海上保安官を乗せているんじゃないぞ。それでなくても巡視船より何倍もでかい中国海軍の白塗り戦艦と対峙しているんだ。たっぷりと予算を充当しろよ。田舎に道路を造っている場合か・・・。まぁ道路も必要だから、国土交通省は、さっさと巡視船の新造予算、修繕予算をどんどん要求せんかい!

 

 ある自治体で似たような話があった(似てないか)。もともと大きな事業を頑張ってやっていた自治体なんだが、近年、なぜだかけち臭い自治体になってきたと評判のところである。

 ある日、市庁舎の玄関を通りかかったところ、荷物の積み下ろしをするために、ハイエースバンが玄関先に停まっていたんですね。それはいい。通行の邪魔にもなっていないし、効率よく荷物の搬入搬出ができるならどんどんとやってくれればいい。

 しかし、そのハイエースがすごかった。営業用の白いバンですわ。そのフロントガラスの下のボディに赤さびのラインが何本も流れていた。それはもう洗っても取れない状態になっていて完全に定着していた。フロントボディに紅いすだれが掛けてあるのかと思いましたぞ。確認したら25年使っているという。貧乏くさいことこの上ない。

 

 自治体のけち臭い車は、けち臭いだけで特段の被害を及ぼすわけでもないから、まだ放っておいてもいいだろう。しかし、国境を守る、国土を守る巡視船が、40年経過のポンコツ艦では、嗤いごとでは済まされない。

 

 いい加減に戦後サヨク思考のお花畑から卒業しようよ。憲法の前文にある「平和を愛する諸国民」なんていないから。支那北朝鮮、韓国にロシヤの「公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持」なんてできるわけないでしょ。

まだ引っ掛かってます(泣)

 2日連続で佐高信氏のことを書いたので、「明日はやめるベェ」と決意をしていた。昨日のことね。

 夕方に、司馬遼太郎のちょいとした調べごとがあって、レファレンスの棚をかき混ぜていた。すぐに目的の司馬関連本は見つかった。1994年発刊の『紳士と淑女』(文藝春秋)、この中に司馬さんの記載があったのだ。

 それはそれ。その『紳士と淑女』の隣りにあったのが、『日本を知る101章』(平凡社)で、よせばいいのに、それをパラパラめくったのが運の尽きだった。本自体はいい本なんですよ。日本の文化について、いろいろな方の文章が載っている。「妖怪」「地震」「相撲」については荒俣宏「竹」「鶴」「松」「祭」「正月」は山折哲雄、「落語」「酒」「すし」は藤本義一、「生け花」「漆」「仏像」「茶道」は白洲正子、「ミナマタ」は石牟礼道子など、執筆陣がなかなかよろしい。カメラマンだって篠山紀信土門拳、ニャンコ写真家として有名な岩合光昭の父親の岩合徳光とか、一流人が揃っている。

 しかし、そんな中にわれらが佐高氏もいたんですね(笑)。「会社」とか「満員電車」とか、いかにも佐高氏らしいテーマで相変わらずの駄洒落文を書いている。もちろん、読まなかったけれど、「佐高信」をまた思い出してしまった。

 そうなると、やはり佐高信論の最高峰である日垣隆さんの「辛口評論家の正体」が読みたくなってしまったのだった。もうすでに何十回と読んでいるけれど、やはり秀逸な文章は何度読んでもおもしろいし、時間を経てもまったく色褪せない。佐高氏と違って、日垣さんは事実に基づいて書いているので、説得力があるしね。

《この長い稿を起こすにあたり、段ボール三箱に達する彼の本や連載原稿などを短期間で読んでいると(彼は同じことを十回でも十五回でも平気で書くので、一冊当たり二十分もあれば通読できてしまう)、私への言及(たぶん批判のつもり)を新しく三つ見つけた。》

 まさにこのとおりで、ワシャも日垣さんほどではないが、佐高本は何冊か読んでいる。それに書いてある内容が幼稚なので、今回の新書も30分で読めた(笑)。

 佐高氏は、月刊雑誌に読書日記の連載をもっていて、そこで《落合恵子『生命の感受性』岩波書店》の書評らしきものを書いた。しかし、本文32行のうち30行が日垣さんへの罵倒で、それ以外は2行だったという。日垣さんは言う。

《この羊頭狗肉は、彼らしいユーモラスさの一つの発露だ。私が佐高信に興味をもつのは、まさにこの「ユーモラスさ」にある。もちろんユーモラスなのは、彼のサービス精神ではない。彼の存在そのものがユーモラスなのである。》

 確かに。

 経済週刊誌「エコノミスト」で一度だけ日垣さんと佐高氏は論争をした。日垣さんは編集部との約束で、それで矛を収めたのだが、批判を受けることに免疫のなかった佐高氏は、粘液質の性格と相まって場外(他のメディア)でも、日垣批判を続けた。よほど悔しかったんでしょうね。最後には《日垣には前から頭にきており、批判をしてやったことがある。ゴミ虫をつぶした感じで、後味はよくなかった。》と書く始末。

 これには日垣さんは大爆笑をしてこう言っている。

「彼が一部の読者から喜ばれるのは、批判の中身ではない。《ゴミ虫をつぶした感じ》というような小姑的表現が、読者に隠微なカタルシスを与えるのだろう。私も、自分のことをいわれていることを考慮にいれても、笑えると思う」

 まさにこの「ゴミ虫」表現が、新書に満載されている。これがファンには隠微なカタルシスを与えるのかぁ。

 ワシャは明確な佐高嫌いだけど、それでも「辛口評論家の正体」を読んで以降、関心を持ってしまった。新刊ではもったいなくて買えないけれど、一時期はブックオフで100円コーナーにけっこう出ていたので、100円ならばと金をドブにとは言わないが、お賽銭のつもりで買うこともあった。

 日垣さんはやさしい。

《でも、こんなに面白い(存在自体がユーモラスな)人を、私は「こいつだけは許せない」だなんて、とても簡単には切り捨てられないのである。戦後無責任主義の権化たる反動的評論家の標本を、生きた教材として私たちは大切に楽しみたいと思う。》

 あああ、また佐高氏のことで時間を費やしてしまった。今、ちょっと調べたら、この日記に過去54回も、佐高氏のことを書いている。結構、汚染されているなぁ(笑)。

狂気のサタカ

 夕べ、望月衣塑子+佐高信『なぜ日本のジャーナリズムは崩壊したのか』(講談社+α新書)を読んでしまおうと思って、風呂に持ち込んだ。湯船に浸かりながら読む本でもないけれど、せっかく買ったんだからと、妙な欲が出てしまった。

 ところがどっこい、風呂場で何度も大笑いをさせてもらった。佐高氏の低レベルの駄洒落で笑ったのではない。あまりのバカバカしさに腹がよじれたのだった。このおもしろさは著者たちが予期していたものではなく、健全な思考力がある人や、お花畑思想に染まっていない人にだけ伝わる面白味であって、佐高ファンの方々には、絶対に理解できない類の嗤いである。例を挙げよう。

《四月十二日の『サンデーモーニング』(TBS系)で、私が安倍が首相になったこと、あるいは首相であること自体が日本にとっての緊急事態だとコメントしたら、またぞろネットで騒がれているようですが、なるべきではないボンボンが首相になってしまったという、日本社会の悲劇でしょう。》

 佐高氏の発言、文章は感覚的過ぎて、説得力がない。「ボンボン」が首相になれないとしたら、資産がある家に生まれた人間には首相になる資格がなくなってしまう。では「ボンボン」ではない菅首相や菅元首相ならばいいのか?というとそうでもない。要は感覚で喋っているだけだなら、中身がスカスカということなのだ。

 なにしろ佐高氏も望月氏も、2020年の10月段階で、まだモリカケにこだわっている。粘液質だから仕方がないんだが、いくらなんでもカビが生えているし、望月氏が大騒ぎしていた頃に比べると、国民の眼に見えなかった部分が、かなり顕在化していて、「今さら何を言っているのか」感が否めない。

 さらに安倍前首相を貶める記述にこんなものがある。

《私は小泉純一郎(元首相)を単純一郎と冷やかしたものですが、小泉が後継者にしてしまった安倍は、単純の三乗、あるいは四乗のような単細胞であり、複雑な思考に耐えられません。》

 はっきり言って、佐高氏が何を根拠にして誹謗しているのかが理解できない。さらにこう継ぐ。

《この安倍政権という日本の緊急事態において一刻も早く安倍には退場してもらわなければ、それこそ、私たちの命は捨て置かれ、危うくなるのは自明です。》

 多くの国民が安倍政権を支持していた。佐高氏が応援しているサヨク系の政党は数%の支持もないではないか。さらに言えば、佐高氏が持ち上げる菅直人氏は、日本を破滅の淵に追い込んだ戦犯ではないか。何をもって「自明」なのか理解できない。

現代日本の病根を、徹底的に明らかにしていきたいと思います。》と、意気込んでいるが、ならないって。

 病巣とはまったく見当違いの部分を指さして「ここを切り取れ」と言っている藪医者どころか、通りすがりの口汚い駄洒落好きのジジイというところだわさ。

 もう突っ込みどころ満載な本なのだが、書き切れないので、最後の大嗤いを示して終わることにする。

 歌舞伎町の出会い系バーに足しげく通っていた「面従腹背」と公言してしまったトンデモ官僚の前川喜平氏を、これ以上はないくらい持ち上げているのである。ある意味でその現実離れさが恐ろしい。

 アホの佐高氏は言う。

《前川さんが出会い系バーに調査のために行ったという言い訳は、「それはないだろう」と。たしかに「それはないだろう」という話なんだけど、でも前川さんが姿を現して語り始めた途端に、「たしかにそうなんだろうな」と思えたよね。》

 思えるか!

 アホは続く。

《つまり前川という人の存在感が、つまらないスキャンダルを消したし、吹っ飛ばしたし、権力とメディアの醜い密通をあぶり出した。そこがすごいなと思う。》

 すごかぁねえよ。文部科学省の事務方トップが銭を出して女を買っていたことに言い訳なんか効くかい。「つまらないスキャンダル」どころか、文部科学行政の大変な汚点である。

 この佐高発言に望月氏がこう応じる。

《「そういう調査のために出会い系に行くというのも、この人ならありそうだな」と。》

 バカか!

 バカは続く。

《前川さんが醸し出している清潔感がそう思わせるようになったということですね。》

 これがジャーナリストの発言だろうか。前川氏が密かに通い続けた出会い系バー、文部科学事務次官がオッケーなら、普通の庶民はみんな「調査」のために大手を振って行けばいい。

 ワシャは、前川氏が「清潔感」があるとはちっとも思わない。が、望月氏にはそう映るのだからやむを得ないけれど、不潔感が漂う人だって「調査」に行くかもしれないじゃん。一新聞記者の清潔、不潔の物差しで、人を差別してもいいのか。見た目、個人的な印象だけで、ジャーナリストとあろうものが、「この人ならありそうだな」なんて信用してはいかんでしょう。

 バカはさらに続く。

《前川さんは、歌舞伎町で出会い系バーに行って日銭で稼ぐ女の子がいる状況を何とかしてあげたいと心から思った。前川さんの場合、そこに「あわよくば」はないわけですよね、徹底的に。》

 おひおひ、文部科学事務次官なんですよ、彼は・・・。そう思ったなら文部科学政策のなかで考えればいい。それだけの力を事務次官は持っている。文部科学予算の中で、その程度の実態調査など、年度末の差額の範囲、誤差の中で充分にやれてしまう。それを極秘で自腹で行くというのは、かなり後ろめたいものがあったんじゃないの。

 百歩譲って「あわよくば」はないかも知れないが、前川氏の場合「性欲ば」は徹底的にあった(笑)。

 いかん、最後は佐高氏が乗り移ってしまったわい。くわばらくわばら。

 

 おまけ。

 英国の批評家のケネス・タイナンが言っている。

「評論家とは、道をよく知っているが、自分では運転できないような人である」

 道も知らず、助手席を占拠して駄洒落を喚き散らし運転を妨害する人だけにはなりたくない。タイナンはそう言っている。

金を粗末に扱うな

 午前中に久しぶりに何も予定がなかったので、古本を漁りにちょいと市外に出かけた。2軒のブックオフを物色にしたのだが、大あたりの日というものがあるもので、「アルフォンス・ミュシャ」の本、図録を4冊も見つけた。

『Alphonse Mucha 生誕150年記念』

『MUCHA アール・ヌーヴォーの幕開け』

ミュシャ財団秘蔵 ミュシャ展 パリの夢 モラヴィアの祈り』

アルフォンス・ミュシャ展』

 こん大漁の日はなかなかあるものではない。金額は言わないけれど、ミュシャファンとしては、堪えられまへんで。

 合計15冊の本を買った。その中の14冊は何らかの必要性を感じてチョイスをしている。しかし、1冊は「金をドブに捨ててしまったか」と自問自答する本だった。110円だけどね。

 望月衣塑子+佐高信『なぜ日本のジャーナリズムは崩壊したのか』(講談社+α新書)である。2020年10月発行の、まだ新刊でっせ。これがブックオフとはいえ、100円コーナーに出ているとは・・・。よほど本としての価値がないのだろうか。

 確かに、本人が崩壊している望月記者に「なぜ日本のジャーナリズムは崩壊したのか?」と問われてもねぇ。それに相方を務めるのが、選りに選って佐高信氏ときた日には、速攻で100コーナーかもね。駄洒落王の佐高氏にジャーナリズムを語られても、本物のジャーナリストは困ってしまってワンワンワワ~ン。

 冒頭に望月氏あての佐高氏の「往復書簡」なるものが載っているが、そこで佐高氏は、武漢ウイルス感染防止を理由に官房長官会見を一日一回にしようとしたことを取り上げ、《官邸報道室の狙いは「粘り強い質問」を続けるあなた外しだったともされていますが、「権力者」に「天敵」視されるのは、記者として名誉なこと》と、望月氏を持ち上げている。

 ううむ、望月氏の菅官房長官(当時)に対する質問は「粘り強い」ではなく、粘液質のくどい質問だった。それも内容のない。

 内容のない者同士が、駄洒落と無知で、勝手に駄話をダラダラとやっているだけのシロモノで、読み始めたところなんだけど、やっぱり金をドブに捨ててしまったかと後悔を始めている。

 冒頭の「序章に代えての往復書簡 佐高信より」の最後に「権力に嫌われる者同士のダイアローグとなるでしょう」と誇らしげに書いているが、佐高氏は権力に嫌われてはいないですよ。そもそも相手にされていないだけで。望月氏のほうは、五月蠅いとは思われていると思います。ほんとに五月蠅レベルで。

 このところまともな本ばかりを読み続けてきたので、破綻した本も覗いてみたくなったのかもしれない。佐高氏の本は買うまいと思っていたのだが、手が滑ってしまったわい。

現在進行形

「現在進行形のヒトラー」と、ジャーナリストの大高美貴さんがとても上手い表現をされた。中国共産党習近平のことをである。ヒトラーは少なくともベルリンオリンピック開催前にジェノサイドには着手していなかった。ホロコーストが激化するのは、その後である。

 しかし、習近平は「現在進行形」なのだ。今、まさに絶滅収容所100万とも200万とも言われるウイグル人が収容され、臓器を摘出されて殺されている。チベットでは僧侶たちが抗議の焼身自殺を続けていく。モンゴルでは言葉を奪って、大モンゴルの誇りそのものを民族から奪っていこうとしている。

 今朝の朝日新聞の国際面。

天津市トップが日本大使に抗議「内政干渉は遺憾」》

 日本の垂秀夫駐支那大使が天津市を訪問した時に天津市の政治局員が「香港や新疆ウイグル、台湾など中国(支那)の内政に公然と干渉したのは遺憾だ」

 バカタレ!この政治局員というのは、支那共産党のトップ25である。こいつが言っているということは、習近平の言い分だ。現在進行形のヒトラーと、現在進行形のナチスの幹部が、現在進行形のジェノサイドをやっておいて、「遺憾」もクソもあるか!

 自由主義国がこのクソ体制に勝った時、こいつらは、みんな、吊るされる。己の命がかかっているのだから、そりゃ必死になるわなぁ。

 こいつらを甘やかしてきた国際社会、とくに日本の親中派の罪は重い。二階幹事長に代表される自民党親中派、そして公明党、さらに支那共産党から活動資金をもらっているんじゃないかと疑いたくなる野盗政治家、メディアなど、この新冷戦が終わったら、必ずや総括されなければならないだろう。

 現在進行形の独裁ジェノサイド国家との戦いには多くの血が流れるだろう。しかし、日本は東アジアのためにその覚悟を持つべきだ。そして日本人の血を、同朋諸国民の血を流したくないというなら、一刻も早い重軍備をするべきである。アメリカから核兵器を移管することもそのひとつであろう。不寛容なバカが核兵器にアレルギーを示すだろう。しかし、もうそんなお花畑の世界ではなくなったのだ。現実に、支那共産党の核ミサイルは日本のあちこちに照準を合せているし、日本に届く核保有国の北朝鮮は、オウム真理教と同じく狂気のカルト集団なのである。

 この現実の前で、まだお花畑に住み続けるというのは、そいつらもまた狂気のカルト9条教の信者なのだ。

 バカは放っておいて、ワシャらは日本の子供たちを守らなければならない。チャイナチやカルトコリアの餌食にされてはたまるものか。

有権者ハラスメント

 今朝の「グッとラック」で以下のような内容の話題が出ていた。

《女性地方議員襲う「有権者ハラスメント」の壮絶》

https://toyokeizai.net/articles/-/416163

 この記事ほど詳細な内容ではなく、朝の報道バラエティらしく薄っぺらい内容だった。だからネットで調べてみた。

 要するに、女性議員に対して様々なハラスメント行為があるということを言っている。しかしそんなことはやむを得ないものだろう。

「このハゲー!」で、国会議員を辞めた豊田真由子氏の発言を、この日記にもメモってある。

《議員という賤業》

https://warusyawa.hateblo.jp/entry/2020/11/30/074433

この中の豊田氏の発言を引く。

「国会議員というのは、新人・若手なんて地元政界では一番下っ端なんですよ。ヒエラルキーの一番下で、もうみんなからマウントとられて、もういっつも頭下げて、どんな不条理なことも、お金のこととか以外は、どんなことを、何を言われても耐え忍ぶんですわ。なんで耐え忍ぶかというと、自分のためではなくて、この地域や国をよくしたいと、思って議員になろうとか、成り続けるためには、そこでいじめられても応援してもらえないと議員にはなれないんですよ」

 国会議員ですらそうなのである。いわんや地方議員をおいてをや。

 ここでも「女性」という括りがクローズアップされているが、こんなもの「男性」でも同様なことで、一票をこれ見よがしにかざしてくる有権者(もちろんそうでない品格のある有権者もいる)は、なにしろマウントを取りたがる。

 聞いた話ですよ(笑)。

 ある地方議員が、たまたま何かの席で、地元の人に挨拶をしたら、こう言われたそうだ。

「おまえは挨拶してくるのは選挙の前だけだな」

 そりゃあそうかも知れません。その議員は何千票という得票で当選している。投票してくれた人に一人一人挨拶して回るのはなかなかできるものではない。だから、何かの席で会った時に挨拶をするのだが、たちの悪い有権者は「おまえ」呼ばわりで文句をつけてくる。

 あるいは、地元のイベントなど、有無を言わさず早朝から深夜まで奴隷労働を強いられる。

「ちょっとその日は都合が悪くて~」などと切り出そうものなら、「次はないからな」と脅される。

「では次は辞めます」と言おうものなら、「1期で辞めるなら、端から出るな。地元の恥だ」と罵声を浴びせられる。

 男性だってそうなのだ。冒頭のニュースや「グッとラック」では「女性」にばかりスポットが当てられているが、そうではないと言いたい。

  さらに言えば「グッとラック」では、東京都議会議員の時に、質問に立って、ヤジを飛ばされ、泣いてしまった塩村あやか氏がクローズパップされていた。こういった時に必ず注目をされるというのも哀れだが、その程度のメンタルでは、おそらく有権者の発言はみんな「ハラスメント」になってしまうのではないか。

 相対的に、議員の地位が下がり、有権者の立場が強くなるのはいいことである。しかし、有権者で一括りにできない、性質の悪いのも混じっていることも事実だ。

 このあたりは議員がきちんと声に出していけばいいと思っている。ぐつぐつ言われたら、ぐつぐつ言い返す。それで「おまえには票を入れない」と言われれば、結構じゃないか。そもそも議員なんて有権者に媚びへつらってまでやる仕事じゃぁない。

まだ考えている・・・

「寛容と不寛容」を続ける。

 アホのワルシャワは、呉さんの「週刊ポスト」のコラムだけでは理解ができず、呉さんの文中にあった《森本あんりは二月二十八日付産経新聞に寄稿し・・・》を取っ掛かりにしようと、図書館に行って新聞を探しましたぞ。しかし、2月28日付の産経新聞には森本氏の寄稿がない。何度、見直しても同じだ。日付の記憶間違いかと思い、2月27日から順番にさかのぼって確認をした。しかしやはり見つからない。さすがに24日で止めた。いくらアホでも28日という記憶が、そこまでずれることはないだろう。

「まさかなぁ」と思って、3月1日の産経新聞を寛げてみた。そうしたらね、ピンポ~ン。東海地方の産経新聞、情報が1日遅れていることを思い出した。

オピニオン欄に森本あんり氏の論が紙面の半分を使って掲載されている。さっそく読みましたぞ。

 森本氏、「寛容」と「不寛容」の塩梅について述べている。森喜朗氏のあの失言は《日本社会に根強く残る男性社会の閉鎖性、不寛容》ではあるが、反面で《社会の多数が非難するような発言でも一切、認めないのは不寛容ではないか》という疑義があると指摘し、《ある種、対極にある2つの意見に見える》と言っている。

 なるほど。しかし、森氏にいちゃもんを付けたのは「社会の多数」ではなく、まことに偏った一部の狂信者と、それに踊らされたマスコミだけなんですけど。まぁそれに踊らされる大衆もリテラシーがないと言えますが。

 とりあえず森本先生の意見を抜粋しておく。

《寛容ということを考えると、建前と本音の一致を問いただすことは必ずしも得策とはいえないかもしれない。》

《人間の内面の自由は、寛容を考えるうえで重要な役割を果たす。》

《その内容が高尚か野卑かを問うこともまた、良心の自由への侵害となり得る。》

《人が考えていることが高尚か野卑か、外から判断を下されないことが、内面の自由そのものだからだ。》

《人の心中を問い詰めすぎると、逆に不寛容を招いてしまう》

《罪や悪と無縁の生を送ることはできない。せいぜいできるのは、悪を最小限に抑え、何とかなだめすかして共存することである。その理想と現実のギャップを埋めるのが、寛容である。》

 重ねて、なるほど。

 少し解かってきたような錯覚もある。よし、それでは森本氏の『不寛容論』(新潮選書)を図書館で借りてきたので(だってネットで売っていないんだもの)、これをしっかり読み込んで「寛容・不寛容」についてさらに考えるのだ。それでいいのだ。