「寛容と不寛容」を続ける。
アホのワルシャワは、呉さんの「週刊ポスト」のコラムだけでは理解ができず、呉さんの文中にあった《森本あんりは二月二十八日付産経新聞に寄稿し・・・》を取っ掛かりにしようと、図書館に行って新聞を探しましたぞ。しかし、2月28日付の産経新聞には森本氏の寄稿がない。何度、見直しても同じだ。日付の記憶間違いかと思い、2月27日から順番にさかのぼって確認をした。しかしやはり見つからない。さすがに24日で止めた。いくらアホでも28日という記憶が、そこまでずれることはないだろう。
「まさかなぁ」と思って、3月1日の産経新聞を寛げてみた。そうしたらね、ピンポ~ン。東海地方の産経新聞、情報が1日遅れていることを思い出した。
オピニオン欄に森本あんり氏の論が紙面の半分を使って掲載されている。さっそく読みましたぞ。
森本氏、「寛容」と「不寛容」の塩梅について述べている。森喜朗氏のあの失言は《日本社会に根強く残る男性社会の閉鎖性、不寛容》ではあるが、反面で《社会の多数が非難するような発言でも一切、認めないのは不寛容ではないか》という疑義があると指摘し、《ある種、対極にある2つの意見に見える》と言っている。
なるほど。しかし、森氏にいちゃもんを付けたのは「社会の多数」ではなく、まことに偏った一部の狂信者と、それに踊らされたマスコミだけなんですけど。まぁそれに踊らされる大衆もリテラシーがないと言えますが。
とりあえず森本先生の意見を抜粋しておく。
《寛容ということを考えると、建前と本音の一致を問いただすことは必ずしも得策とはいえないかもしれない。》
《人間の内面の自由は、寛容を考えるうえで重要な役割を果たす。》
《その内容が高尚か野卑かを問うこともまた、良心の自由への侵害となり得る。》
《人が考えていることが高尚か野卑か、外から判断を下されないことが、内面の自由そのものだからだ。》
《人の心中を問い詰めすぎると、逆に不寛容を招いてしまう》
《罪や悪と無縁の生を送ることはできない。せいぜいできるのは、悪を最小限に抑え、何とかなだめすかして共存することである。その理想と現実のギャップを埋めるのが、寛容である。》
重ねて、なるほど。
少し解かってきたような錯覚もある。よし、それでは森本氏の『不寛容論』(新潮選書)を図書館で借りてきたので(だってネットで売っていないんだもの)、これをしっかり読み込んで「寛容・不寛容」についてさらに考えるのだ。それでいいのだ。