2日連続で佐高信氏のことを書いたので、「明日はやめるベェ」と決意をしていた。昨日のことね。
夕方に、司馬遼太郎のちょいとした調べごとがあって、レファレンスの棚をかき混ぜていた。すぐに目的の司馬関連本は見つかった。1994年発刊の『紳士と淑女』(文藝春秋)、この中に司馬さんの記載があったのだ。
それはそれ。その『紳士と淑女』の隣りにあったのが、『日本を知る101章』(平凡社)で、よせばいいのに、それをパラパラめくったのが運の尽きだった。本自体はいい本なんですよ。日本の文化について、いろいろな方の文章が載っている。「妖怪」「地震」「相撲」については荒俣宏、「竹」「鶴」「松」「祭」「正月」は山折哲雄、「落語」「酒」「すし」は藤本義一、「生け花」「漆」「仏像」「茶道」は白洲正子、「ミナマタ」は石牟礼道子など、執筆陣がなかなかよろしい。カメラマンだって篠山紀信、土門拳、ニャンコ写真家として有名な岩合光昭の父親の岩合徳光とか、一流人が揃っている。
しかし、そんな中にわれらが佐高氏もいたんですね(笑)。「会社」とか「満員電車」とか、いかにも佐高氏らしいテーマで相変わらずの駄洒落文を書いている。もちろん、読まなかったけれど、「佐高信」をまた思い出してしまった。
そうなると、やはり佐高信論の最高峰である日垣隆さんの「辛口評論家の正体」が読みたくなってしまったのだった。もうすでに何十回と読んでいるけれど、やはり秀逸な文章は何度読んでもおもしろいし、時間を経てもまったく色褪せない。佐高氏と違って、日垣さんは事実に基づいて書いているので、説得力があるしね。
《この長い稿を起こすにあたり、段ボール三箱に達する彼の本や連載原稿などを短期間で読んでいると(彼は同じことを十回でも十五回でも平気で書くので、一冊当たり二十分もあれば通読できてしまう)、私への言及(たぶん批判のつもり)を新しく三つ見つけた。》
まさにこのとおりで、ワシャも日垣さんほどではないが、佐高本は何冊か読んでいる。それに書いてある内容が幼稚なので、今回の新書も30分で読めた(笑)。
佐高氏は、月刊雑誌に読書日記の連載をもっていて、そこで《落合恵子『生命の感受性』岩波書店》の書評らしきものを書いた。しかし、本文32行のうち30行が日垣さんへの罵倒で、それ以外は2行だったという。日垣さんは言う。
《この羊頭狗肉は、彼らしいユーモラスさの一つの発露だ。私が佐高信に興味をもつのは、まさにこの「ユーモラスさ」にある。もちろんユーモラスなのは、彼のサービス精神ではない。彼の存在そのものがユーモラスなのである。》
確かに。
経済週刊誌「エコノミスト」で一度だけ日垣さんと佐高氏は論争をした。日垣さんは編集部との約束で、それで矛を収めたのだが、批判を受けることに免疫のなかった佐高氏は、粘液質の性格と相まって場外(他のメディア)でも、日垣批判を続けた。よほど悔しかったんでしょうね。最後には《日垣には前から頭にきており、批判をしてやったことがある。ゴミ虫をつぶした感じで、後味はよくなかった。》と書く始末。
これには日垣さんは大爆笑をしてこう言っている。
「彼が一部の読者から喜ばれるのは、批判の中身ではない。《ゴミ虫をつぶした感じ》というような小姑的表現が、読者に隠微なカタルシスを与えるのだろう。私も、自分のことをいわれていることを考慮にいれても、笑えると思う」
まさにこの「ゴミ虫」表現が、新書に満載されている。これがファンには隠微なカタルシスを与えるのかぁ。
ワシャは明確な佐高嫌いだけど、それでも「辛口評論家の正体」を読んで以降、関心を持ってしまった。新刊ではもったいなくて買えないけれど、一時期はブックオフで100円コーナーにけっこう出ていたので、100円ならばと金をドブにとは言わないが、お賽銭のつもりで買うこともあった。
日垣さんはやさしい。
《でも、こんなに面白い(存在自体がユーモラスな)人を、私は「こいつだけは許せない」だなんて、とても簡単には切り捨てられないのである。戦後無責任主義の権化たる反動的評論家の標本を、生きた教材として私たちは大切に楽しみたいと思う。》
あああ、また佐高氏のことで時間を費やしてしまった。今、ちょっと調べたら、この日記に過去54回も、佐高氏のことを書いている。結構、汚染されているなぁ(笑)。