絵に描いた餅

 今朝の朝日新聞。「もっと教えて!ドラえもん」の拡大版である。今日は「SDGsくらしとつながり」と題し、まさに「SDGs」(エスディージーズ)について解説をしている。

「SDGs」。2015年に国連にはいるすべての国が、人々のくらしを保障しながら、平和と地球の環境を守る「持続可能な開発目標」というお題目をまとめた。これを2030年までに達成するそうなんだけど、そもそも国連加盟国すべてが・・・というところで、まず胡散臭さを感じずにはいられない。

「1 貧困をなくそう」

 ご苦労様。

「2 飢餓をゼロに」

 ウイグル絶滅収容所にいれられているウイグル人に食料を届けてみろよ。

「3 すべての人に健康と福祉を」

 支那中国の10億人の奴隷の解放をしてから言え。

「4 質の高い教育をみんなに」

 理想はけっこうだけど・・・。

「5 ジェンダー平等を実現しよう」

 これは後ほど、別建てで触れたい。

「6 安全な水とトイレを世界中に」

 世界中を日本にしようということなのだが、物理的に不可能だろう。

「7 エネルギーをみんなに そしてクリーンに」

 アメリカや支那中国がどの口で言う・・・という感じだが、この目標の根底にある「CO2悪玉説」が具体的な話でないところに説得力がない。

「8 働きがいも経済成長も」

 支那中国の10億人の奴隷を解放してから言え。

「9 産業と技術革新の基礎をつくろう」

 それがやれるのは先進国のいくつかだけでしょうね。そしてそれは先進国が独占してその利は一部の資本家に独占される。

10 人や国の不平等をなくそう」

 そんなことは神様でもできない。

11 住み続けられるまちづくりを」

 なんだか急に目標が小さくなったなぁ。神の領域から基礎自治体の話になっている。

12 つくる責任 つかう責任」

 責任をもってそれを実践できるのは聖人しかいない。いやいやお釈迦様でも子供をつくったけれど責任を放棄してしまった。聖人にも無理だ。

13 気候変動に具体的な対策を」

 気候変動の具体的な根拠を。

14 海の豊かさを守ろう」

 公海で魚を根こそぎ盗っていく支那漁船団にまず言え。

15 緑の豊かさを守ろう」

 それはけっこうなことだが、地球上には砂漠が4分の1(36億ヘクタール)もある。そこに緑がないのは当然のことだが、このように緑のあるところとないところの差は厳然として横たわっている。そしてその砂漠の下から石油が出てくると、その砂漠国は突然金満国になって国民は税金を払わなくていい。これは国それぞれの特性によるもので、このことがある限り「10 人や国の不平等をなくそう」が実現することは永遠にない。 

16 平和と公正をすべての人に」

 だから、「SDGs」の宣言に同意した中国共産党はこの目標を1ミリも実現できない。

17 パートナーシップで目標を実現しよう」

 どこと?

 

 こんなお花畑な理想をどれだけ活字にしても、絵に描いた餅ではぜったいに腹はふくれない。

 朝日のドラえもんは言う。

「SDGsはいろんな問題が根っこでつながっていることに注目し、まとめて考えながら解決しようとしているんだ」

 そりゃ国際情勢は、すべてがつながっている。そんなことは当たり前だよね。

「食べ物をむだにしない、ゴミを減らす、買い物のしかたを変える、節電や節水をする」

 それを国民に強いるのも結構。これまでも環境原理主義者たちの言説にだまされて、日本人は意味のない行動を取らされてきた。

 朝日新聞は、年末の29日から一面トップを「カナリアの歌」という特集で埋めているが、SDGsに添うならば、国際情勢を一面に持ってくるべきではないのか。「女子大生の就活(29日)」、「司葉子さんの自宅の蔵書(31日)」も大事だろう。だが、「ウイグル人の悲劇」、「香港人の苦闘」、「イランの混沌」など、そちらの現状をタイムリーに届けるのがSDGsを掲げる報道の役割ではないのか。

 

 上記のドラえもんと呼応して迷物コラムの「日曜に想う」もSDGsである。編集委員はのっけからこう書く。

《男女の平等という点で日本は153カ国の中で121番目。(中略)今のペースで男女が平等になるまであと何年かかるかという試算もしてうる。世界でもっとも歩みが遅い東アジア・太平洋地域では163年後。その中でさえ日本は遅れている。》

「5 ジェンダー平等を実現しよう」を冒頭にもってきて、その他にも「物質的剥奪指数」、「若者の誇り」、「65歳以上の生活苦世帯」などを並べて《多くの人が取り残され、取り残されそうな社会》と嘆いてみせる。

 途中から、元国連大使という人物を登場させ《約10年前に海外から帰国した時「愕然とした」という。久しぶりの日本は子どもの虐待、DVの増加、高齢者の孤独死、非正規雇用の広がりなどのニュースであふれていた。》と語る。

 元国連大使が帰国したのが2011年であるから、海外に出たのは2001年頃ということになる。おいおい、2001年でも虐待、DV、孤独死、非正規雇用の問題は数多あったのだ。それに国連大使なら日本社会にも注意を払っておけよ。帰ってきて「愕然」とするな。

 ジェンダー平等について言えば、支那中国や北朝鮮は日本よりも高位に位置づけられている。しかし、10億の支那人が、日本人よりも幸福を享受しているかといえば、絶対にそんなことはあり得ない。

 一面だけを切り取ってSDGsを語るなよ(怒)。

 

 そして結びの文章で、萩生田文部科学大臣の「身の丈」発言を槍玉に挙げている。「端境期なのでご理解を」発言に対しても、編集委員はクレームをつける。

《「誰も取り残されない」社会はつくれないというに等しい。これは政治の敗北宣言にほかならない。》

 自由主義経済下において、富むものとそうではないものの差は出てしまう。例えば逃亡者が保釈金として払った金は15億円である。ワシャが10回生まれ変わったとしても払えない額である。それに後ろ足で砂をかけてレバノンに逃げていった。そういうことなのだ。カルロス・ゴーンとワシャには大きな差があって、だからワシャは身の丈にあった生活をしている。そしてそれがとくに悲しいとか困ったとか思わない。車寅次郎には、彼なりの生き様があって、それを地位も名誉も財産も持っている画家や陶芸家がうらやましいと思うのである。

「身の丈」発言、結構じゃないか。「端境期」発言も、人生には時として思いもしない展開に晒されることはあるので、それを受け入れながら、その中でどう最善をつくしていくか、それが重要だと大臣は言っている。

 編集委員は「誰も取り残されない社会を実現しろ」と政治家に迫る。もちろん理想としてはそこを目指すべきだが、政治家は朝日新聞と違って、現実も直視して、今、最善の策を講じていかなければならない。

 

 いつまでも餅の絵を描いているのではなく、実際に餅を搗いて購読者に提供してみろよ。

 

ウイグル人を救え!

 ワシャは日本の経済人を軽蔑する。日本の経済界には「親支那」、いわゆる「媚中派」が数多(あまた)棲息している。その親玉が、伊藤忠商事の社長まで登り、のちに駐中国大使に就任した丹羽宇一郎である。彼を筆頭にして、支那で一儲けしようとしてきた経済人、いまだに一儲けしようとしている商売人が、いかにチベットウイグルなどの諸民族の迫害に協力してきたことか。

 チベットで多くの僧侶が自らの身を焼いて抗議をしている。もうそれしか抗議を示す方法が残されていないからである。ウイグルチベットに続いて、中国共産党ファシズムに蹂躙されようとしている。人民解放軍が党の指示で、実行している虐殺、民族浄化、宗教弾圧、臓器売買などの悪行は、何度も言っているが、ヒトラーナチスの比ではない。そのことが、チベット人ウイグル人内モンゴルのモンゴル人、その他の少数民族の口から語られ、その証拠写真が白日の下に晒されている。

 にも関わらず、経済人は「政治と経済は別だからね」と巨大市場である支那大陸の利権を一手に押さえる支那ナチス中共に媚を売り続けている。

 ヨーロッパには「商人の紋章は盗人の紋章と同じ」ということわざがあり、日本にも「近江泥棒、伊勢乞食」という貧乏な江戸っ子の負け惜しみがある。古今東西、商人というのは、かなり怪しむべき職種だった。

 それでも日本の商人には、武士に似た矜持があって、必ずしも大陸商人のようではないと思っていたが、20世紀の晩期から、日本の商人も卑しくなってきた。経済最優先というと聞こえはいいが、銭もうけ最優先ということに偏り過ぎている。

 

 なにを言いたいかというと、21世紀のナチスに経済的に協力してはいけないということ。そして、経済界の盗人どもに後押しをされた安倍政権は、支那ナチス頭目国賓待遇で招いては絶対にいけない。

 あるいは近々安倍首相が習近平主席に合うらしいが、その時に「ウイグルでのジェノサイドを即刻中止しなければ、日本はあなたを国賓として受け入れることはできない」と言い切ってほしい。

 それで相手が怒り狂って、「日本には行かないアルヨ」と言ってくれればそれでいいし、さらに「オリンピックにも選手団を送らないアルヨ」と言っても、ぜんぜんオッケーじゃん。訪日支那人が減ったって、かえって観光地が浄化されるわさ。それに長期的に考えれば、支那ナチスから解放されれば、支那国民がこぞって日本を訪問してくれる。それまで、国民一丸となって忍従すればいい。

 欧米がこぞって、支那の人権問題に異を唱えている。日本だけが盗人に唆されて、友好ムードを醸成してしまうことは、国際社会百年の大計を誤る。

 どうぞ、支那に行かれた際には、「ウイグル」について言及をしていただきたい。

『正論』の1月号に、解かりやすくウイグルの現状を説明した漫画が掲載されている。ネットではこちらをご覧ください。そして少しでいいのでウイグル人に思いを馳せてください。

《私の身に起きたこと ~とあるウイグル人女性の証言~》

https://note.com/tomomishimizu/n/nfd4c33d0fcdf

二日目まで

 元旦は、前夜の大晦日から地元の神社での新年祭の準備やらでずっとこき使われていた。そもそも地元の稲荷社と言っても、稲荷だけに商売人の神様として勧請しているわけで、ワシャは商売をしていない。それに、生まれたときに行った宮参りは、少し南にある八幡社だった。もと武家(ペイペイの足軽だけどね~)であるワルシャワ家は、八幡社のほうに親和性がある。

 それにワシャの家のすぐ近くには、禅宗の寺があって、そこには子供のころから、初詣に行っていて、そこで除夜の鐘を突くのが、ワシャの年初の恒例行事となっていた。

 しかし、商店街として発達してきた地元町内は、当然のことながら稲荷社のほうに注力し、ワシャも縁はないのだけれどそちらに駆り出されることとなる。面倒くせえな。

 神社のつとめが終わったのは、午前2時。帰宅して布団に入ったのは午前3時を回っていた。

 元旦の朝に就寝して、元旦の朝7時に目覚ましで起きた。それから支度をして、また神社に行き、朝の掃除やら片付けをする。これが終わって、一旦、自宅に戻り、正装に着替えて、また神社に行く。本殿で新年の祝詞をあげるのである。

 それが終わって、直会が始まる。昼から酒が出て、務めを終えたオジサンたちは、一様に楽しそうだ。ワシャは昼から飲んでしまうと、午後がすべて潰れてしまうので、つき合いでグラス2杯のビールで仕出し弁当を食べ、早々に社を辞した。その時点で、一升瓶が何本か空いていたので、あの後も盛り上がったんでしょうね(笑)。

 その後、所用をいくつか済ませて、自宅に戻ると、友人から電話が入っていた。「ちょっと重要な話がある」とのことで、夕方から友人宅を訪問した。

 話は、新年早々、ちょいとヘビー級の話で、友人のプライバシーもあるのでここでは書かないが、2時間ばかりの話し合いをして、仕切り直しということで、正月3日に、またワシャの家でということになった。今日ね。

 

 2日は、これまた忙しくて、この日はワシャの家にワルシャワ一族が集まって、新年会を開催する。ざっと150人・・・いや、その10分の1でした(謝)。

 この宴の準備のために、買い出しをしなければならないし、会場の準備、宴の料理の仕込みなど、フル回転で走り回る。

 午後1時から始まった宴が一段落したのは、午後9時を回っていた。やれやれ。年賀状を確認したのは、午後10時だった。ほえ~。

 

 就寝して、一度目を覚まして、未明にまた寝た。そうしたらきっちりと初夢を見た。なかなかいい夢でしたぞ。ウンのつく夢で、ちびりそうにリアルな夢でした(笑)。ここでは放送コードに引っ掛かりそうなので書けませんが、カラー仕立てで、登場人物も多く、舞台も大がかりな夢だった。

 

 いやはや、怒涛のような大晦日、元旦、二日だった。

 

1月2日

 いやー、朝からめちゃめちゃ忙しくて、パソコンの前に座っているのが午後9時40分過ぎてようやくという状況です。それもレロレロに酔った状態であります。

 そんなことで、また明日、しっかりしてから登場したいと思う次第です。ヘロヘロ~。

令和2年のご挨拶

 明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

 

 さて、令和2年(2020)子年が始まりました。それではまずネズミをお題に一席お付き合いを願います。

  ネズミという漢字である。「鼠」と書くのは皆さんご存じのとおり。去年の正月は「猪」の異体字「豬」を分解して喜んでいたので、今年も「鼠」を分解してやろうと調べたんだけど、この字は分解できなかった。象形文字である。「臼」の部分が頭で、「雨」みたいな点々のところが胴体と足で、右側にはねているのが尻尾らしい。象形文字では、形がそのまま字形になっているから分解できまへん。

 では、ネズミの別の話をしよう。

 ワシャが凸凹商事の博物館関係の仕事をしている時に、地域の古民家から、古い木製の仕掛人形の残骸が1体発見された。それはもう木の部分しか残っておらず、衣装は朽ち、木の部分も擦り減っていた。そのものに対する書置きも、説明書きのようなものも一切残されていなかった。辛うじて手足が付いていたので人らしきものと判断した。その人形が、木枠で作られたレールの上に固定されていて、それが前後に動く仕掛けになっている。そしてこれが大きなヒントになったのだが、そのレールにネズミのような形の物体も付いていて、これもレール上を前後に動く仕組みになっている。

 どうにも困った博物館はからくり人形の企画展をやったことのある研究員にその人形のようなものの解明をするように言明したのである。しかし、その学芸員も、上記程度の情報量ではこの朽ち果てた木のガラクタが何であるかを特定するのは困難だった。からくり人形には違いない。しかし、それがなんのからくりだったのかが見当がつかなかった。

 そこで研究員に脳裏にある男の顔が浮かんだのだった。ヘンなことをなんだか知ったかぶっているワルシャワって野郎の顔だった。

 てなわけで、シャワロック・ワルムズの事務所に木のガラクタが持ち込まれたのだった。

「ワトソン君、ここを見てごらん。このネズミのような部分が動くと、こちらの人形も動くという仕掛けになっている。つまりネズミと人が連動して動くからくりということだ」

 ワシャは運のいいことに、この人形が持ち込まれるちょっと前に歌舞伎座だったか大阪松竹座だったか忘れてしまったけれど、「伽羅先代萩」(めいぼくせんだいはぎ)という歌舞伎を見てきたばっかりだった。この狂言には、「足利家床下の場」という有名な場面があって、そこに荒獅子男之助と大悪人の仁木弾正の化けたネズミが登場するのである。江戸期のからくり人形は歌舞伎にその題材を取っているものが多い。そして、ネズミと人という組み合わせの人気狂言と言えば「伽羅先代萩」で決まりだ。

 シャワロック・ワルムズのこの仮説は、どこぞの研究紀要に載っているらしい。

 

 ネズミネタで出てくるのはこんな話だけでした。お粗末!

 

 今年は干支でいうと「庚子(かのえ ね)」である。「こうし」とも読む。「庚」も象形文字であったか。これは秋に万物がたわわに実がついたようすを形として著したものなのだそうな。「庚庚」は「こうこう」と読み、樹木がしっかりと実をつけた様のことを言う。もうひとつ、「横に筋が通ったさま」のことも「庚庚」で表される。

 筋の通った一年にしたいものですね。

この一年が、皆様にとって、令和2年が庚庚な一年になりますことをお祈りして、新年のご挨拶にかえさせていただきます。

令和元年の七味五悦三会

 一年間お世話になりました。令和2年が皆さまにとって佳き年になりますようお祈りしております。

 

 さて、今年の「七味五悦三会」であります。まず「七味」。

 豊橋駅前のうどん屋で食べた「鰻の白焼き」が上手かった。ちょいと山葵をのせて口に含めば、海と山との絶品のハーモニー、そこにちょいと熱めの燗酒をきゅっと足して御覧なさいな。「日本に生まれてよかった~」となりますぞ。

 東京の室町砂場の「さらしなの天ざる」。天とついちゃあいますが、シイタケと大葉の上で海老がそっくり返っているような天ぷら蕎麦ではござんせん。深めの小鉢の中の温かい蕎麦汁に小さめのかき揚げが浮いているっていう上品な拵えでさぁ。これにまっちろなさらしな蕎麦の先端をちょいと浸して、ずるるっと吸い込んで、そのまま喉まで落とし込む。この喉越しがたまんねぇのさ。

 おっと、蕎麦の話になるってえとついつい江戸言葉が出てしまった。

 名古屋のミッドランドスクエアにある居酒屋で食った北海道釧路産の「仙鳳趾の生牡蠣」も絶品だったぎゃぁ。もみじおろしにネギを添えてつるっと呑み込んでまった。う~ん、新鮮な牡蠣はまったく生臭くない。爽やかな磯の風を感じるでいかんわ。

 刈谷駅前の居酒屋で食った「しらすポン酢」が美味かった。これは美味すぎてお代わりをしたくらいなのじゃ。ちょっと太めでぷりぷりしたしらすが新鮮だった。これはいまでも夢に見るほどだ。あの味をもう一度ということで、メニューにしらすポン酢があると注文するのだが、これが違うんですね(泣)。

 函館で食った「塩辛」も美味かったなぁ。コクがあるというのか、イカも肉厚で、唐辛子と山椒の風味が薫って、寒かったので飛切燗に合せていただきました。

 東京駅で買ったプレスバターサンド(黒)が六花亭のバターサンドの次に口に合いましたぞ。ワシャはあまり甘いものは食さないのだが、六花亭のバターサンドだけはコーヒーの時に食べることができた。それがひとつ増えた。善哉善哉。

 6つ目は、友人宅で食べた手作りの焼売。これは抜群だった。崎陽軒のシウマイに勝っている。海老が大ぶりで具は白はんぺんとタマネギだという。これを辛子につけてパックといく。肉系が入っていないのでとても酒とマッチする。通常は焼売など食わないのだが、この焼売ばかりは6ついただきましたぞ。

 7つ目はまったく浮かばないのだ。残念ながら年の前半、美味いものを落ち着いて食う暇がなかった。半年のブランクは、七味を揃えるにはなかなか厳しい。まぁ6つで善しとしよう。

 

「五悦」である。これも半年を失った分、悦びも少なめだったなぁ。

 しかし5月に大いなる悦びがあった。

「御世代わり」である。平成から令和へと時代が進み、新たな天皇を戴くことができた。これにまさる慶びはない。

 その他では、忙しい3月にちゃっかり「柳家小三治独演会」に行っている。これは凄かった。なにしろ現落語会の孤高の頂点に立っている国の宝である。その小三治が「死神」でご機嫌をうかがう。これはたまらない。この「一悦」だけで「五悦」分ありそうだ。

 4月は、御園座で「通し狂言南総里見八犬伝」を観た。しかし、ワシャ的にはもうひとつ盛り上がらなかった。役者が、芝翫松緑愛之助くらいなんですね。華がないなぁ。

 5月の「磯田道史講演会」はよかった。刈谷市での講演だったのだが、話の中心軸が松平一族にシフトして、どちらかというと隣の安城とか岡崎の話になっていた。それもおもしろかったんですね。

 やはり5月に小説家の奥山景布子さんの最新作『圓朝』(中央公論新社)出版記念落語会があった。そこで古今亭菊之丞が「天狗裁き」と「豊志賀の死」の二席をつとめた。菊之丞腕を上げている。これからは見逃せない落語家になった。

でね、9月には地元の落語会に、やはり菊之丞がやってきた。今度は志ん生の十八番「火焔太鼓」を掛けてきた。これは凄かった。

 同じ週に、豊田市美術館でやっているクリムト展を観て、その後に、NHK交響楽団チャイコフスキーの『幻想曲「フランチェスカ・ダ・リミエ」op.32』と『交響曲第2番ハ長調「小ロシア」op.17』をたっぷりと堪能できた。東ヨーロッパ、スラブ系の匂いが漂うとてもクリムトと親和性のあるコンサートで、これは最高だった。

 前後するけど、8月の立川志の輔の独演会もよかったなぁ。「千両蜜柑」と「抜け雀」の二席である。現在、小三治に次ぐ位置に付けているのが志の輔だと思っている。談志をして「立川流の傑作」と言わしめた落語家である。高座は安定感があって、しかも大爆笑だった。落語はスター級が沢山いていいなぁ。

 9月は「新派公演」に行ってきましたぞ。歌舞伎の時代から贔屓にしていた市川春猿が新派に移っての舞台だった。ううむ、やはり春猿は妖艶だ。これを歌舞伎から外に出してしまう松竹の方針が信じられない。まぁこれで新派の方は地固めができたが、大本の歌舞伎が役者スカスカではねぇ。

 10月の文楽「生写朝顔話」(しょううつしあさがおばなし)も見ごたえがあった。文楽はもう安定感があって安心だ。「字幕」を入れたのが大正解で、素人でも楽しめる素地を作ってくれた。

 御園座には片岡仁左衛門中村獅童がやって来たが、やはり役者全体の厚みがない。

 12月の名古屋の「SWA落語会」での三遊亭白鳥の「ハイパー初天神」も腹を抱えて笑わせてもらった。

 おっと、もう11いってしまいましたか(笑)。ずっと遊んでいたわけではないんですよ。忙しい合間をぬって文化鑑賞に出かけていたということでご了解ください。やっぱりお手軽な落語が多いでゲスなぁ。なかなか歌舞伎座南座には出かけられないし、文楽も大阪まで行く時間がなかったですからね。全国を西へ東へと飛び回ったけれど、仕事なのでまったく観光などできませんでした。

 さて、この中から「五悦」を選ぶんですが、「令和新時代」「小三治」「志の輔」「クリムトN響」「生写朝顔話」てなところですか。やっぱり落語が強く、歌舞伎は2つとも落選しました。やっぱりねぇ玉三郎仁左衛門海老蔵菊之助幸四郎勘九郎七之助猿之助獅童くらいしか客が入らないんだからどうしようもない。で、この顔ぶれがばらけてしまうので客の入りが見込めない。御園座はスカスカだった。いかんいかん、愚痴になってしもうたわい。

 

 そして「三会」である。

 ことしはたくさんの人に出会った。ある意味で「十会」くらいは楽にいっている。感謝してもしきれない人も多い。しかし人に会い過ぎて、若干の人嫌いになった傾向もある。自分のペースで人に会えていないんだな。これを克服するのが令和2年の課題となるだろう。

 

 今年も大きな転機を迎えた年だった。去年と今年はワシャ的には激動の2年と言っていい。しかし、その前の何年かの苦境に比べれば、精神的にはかなり楽になった。57キロまで落ちた体重も68キロに戻ってしまったしね(泣)。

 今年は「六味五悦三会」に終わりましたが、まぁ、いい年だったと言うことにしておきましょう。

 それでは皆様もよいお年をお迎えください。来年もまたよろしくお願い申し上げます。

駄話のラス前

 令和元年の最終的な反省は明日に譲るとして、今日は駄話を適当にさせていただこう。

 半ばはおもしろい一年だった。四分の一は大変な年だった。残りの四分の一は気分の悪い2019年であった。まぁ気分の悪いのも、「おもしろい」のと「大変」な結果が生み出していることなので致し方ない。それでも五割がおもしろければそれでいいと思っている。数年前の地獄に比べれば、阿修羅道くらいのことですわ(笑)。

 

 そうそう昨日の朝日新聞紙の「折々のことば」がよかった。「朝日歌壇」への投稿の歌なんだけど、こんなのでした。

 

「たまる」「当たる」「もらえる」だからほんとうにいるものなんてもうわからない

 

 最初にこれだけを読んだ時になにがなんだか解からなかった。この文の後に付け加えれている鷲田清一氏の解説があって「短歌」であることが理解できた。

 

「たまる」「当たる」

「もらえる」だから

ほんとうに

いるものなんて

もうわからない

 

 平仮名ばっかりで、「」も多用してあり、読みにくかったが、こうやって分解すれば、六七五七七で短歌になっている。ワシャは短歌のことはよく解からないが、それでもこの作者が言いたかったこといことというのがなんとなくおぼろげに見えてくる。鷲田氏の解説を引く。《ポイント還元にボーナスポイント。これに「ラッキー」とVサイン。そこには「得した」感覚はあっても「恵み」の感覚はなく、その下心を知れば、さもしい時分の姿が映るだけ。》とくに平仮名ばかりの字面が、放心してなにも考えられない今の消費者を象徴しているようで、どこそこ悲しい。

 

 どことは言わないけれど、この年末に国会議員は地元の町内会や消防詰所を必死に走り回っている。それでいいのか?と思うけれど、そうしなければ「票」にはつながらないということで、これが国力を貶めているベースではないのかと考えてしまう。

 

「あたま」「下げる」「もらえる」だからほんとうにいるものなんてもうわからない