駄話のラス前

 令和元年の最終的な反省は明日に譲るとして、今日は駄話を適当にさせていただこう。

 半ばはおもしろい一年だった。四分の一は大変な年だった。残りの四分の一は気分の悪い2019年であった。まぁ気分の悪いのも、「おもしろい」のと「大変」な結果が生み出していることなので致し方ない。それでも五割がおもしろければそれでいいと思っている。数年前の地獄に比べれば、阿修羅道くらいのことですわ(笑)。

 

 そうそう昨日の朝日新聞紙の「折々のことば」がよかった。「朝日歌壇」への投稿の歌なんだけど、こんなのでした。

 

「たまる」「当たる」「もらえる」だからほんとうにいるものなんてもうわからない

 

 最初にこれだけを読んだ時になにがなんだか解からなかった。この文の後に付け加えれている鷲田清一氏の解説があって「短歌」であることが理解できた。

 

「たまる」「当たる」

「もらえる」だから

ほんとうに

いるものなんて

もうわからない

 

 平仮名ばっかりで、「」も多用してあり、読みにくかったが、こうやって分解すれば、六七五七七で短歌になっている。ワシャは短歌のことはよく解からないが、それでもこの作者が言いたかったこといことというのがなんとなくおぼろげに見えてくる。鷲田氏の解説を引く。《ポイント還元にボーナスポイント。これに「ラッキー」とVサイン。そこには「得した」感覚はあっても「恵み」の感覚はなく、その下心を知れば、さもしい時分の姿が映るだけ。》とくに平仮名ばかりの字面が、放心してなにも考えられない今の消費者を象徴しているようで、どこそこ悲しい。

 

 どことは言わないけれど、この年末に国会議員は地元の町内会や消防詰所を必死に走り回っている。それでいいのか?と思うけれど、そうしなければ「票」にはつながらないということで、これが国力を貶めているベースではないのかと考えてしまう。

 

「あたま」「下げる」「もらえる」だからほんとうにいるものなんてもうわからない