年末年始は寅次郎

 今朝の朝日新聞紙。もちろん「紙」はイヤミで付け足している。でもね、13面にある「月刊寅さん12月号」は、朝日新聞と言い戻していい内容だ。というか、ワシャが「男はつらいよ」の大ファンだから、いい内容だと思ったのかもね。まぁ全紙面をざっと見た中で、読み物として成立しているのは、このページだけだなぁ。

 

 大見出しは「南の島に流れるふたりの時間」である。寅次郎ファンであるなら、この一文だけで「ああ、これは最終作品の『寅次郎紅の花』だな」と判るんですね。そして、年を重ねた寅次郎とリリー(浅丘ルリ子)の映像が脳裏に浮かぶ。奄美群島加計呂麻島を舞台にした渥美清の遺作である。

 今、このネタを紙面に持ってくるのは、時期的にいい。そもそも、この映画自体が1995年12月公開の正月映画だからである。記事は映画のストーリーを語りつつ、山田洋次監督の現在のエピソードなどを挿み込む。

「ほお、夏に山田監督は加計呂麻のホテルに滞在するんだ」

「リリーの家は改修されて民泊できるんだ」

「映画の中で流れた島唄は、元ちとせが唄っていたんだ」

とかね。

 

 紙面全体としては3つの構成になっていて、上記がメインの記事で、その左に「語る」というコーナーがあって「不器用でも懸命に生きる人 見守って」と題し、歌手の八代亜紀さんが寅次郎映画にまつわる話をしている。

 紙面の下方は「偲ぶ」という短めの500字ばかりのコラムとなっている。取り上げているのは「タコ社長」の太宰久雄さん。エピソードは、第26作の「1万円札偽札発言」で寅次郎と取っ組み合いになってしまう「KY」な流れを紹介している。

そしてコラムの最後をこう締めている。

《演じたのは太宰久雄さん。素顔は読書好きで物静かな家庭人だった。1998年、74歳で鬼籍に入る。「葬式無用。生者は死者のために煩わさるべからず」が遺言だった。》

 この一文に触れて、ワシャは「太宰さん、『死の思索』(岩波新書)を読まれているのではないか?」と思った。

『死の思索』187ページ。

《死者を判断するのは生ける他者たちである。死者は生者の餌食となる。死者を存続させるもさせないも、生者の勝手である。》

 太宰さんは「生者の餌食」になりたくなかったのであろう。

人生を変えた本

 人がその人生を変えるくらい衝撃的な本との出会いというものは、そうそうあることではない。ワシャの場合は二冊、それもきっぱりとこの2冊と言える本がある。

 

 最初の一冊は、この日記にもときどき顔を出す『燃えよ剣』。幕末の新選組副長土方歳三の生涯を描いた司馬遼太郎歴史小説である。

 司馬さんの歴史小説を「ライトノベル」と評したクソ評論家がいたが、司馬さんの小説は極めて読みやすいけれど、物語の奥行きは深いし、情報量もとんでもなく多い。そして哲学的な要素も含んでいて、噛めば噛むほど味が出てくるスルメ本なのだ。クソ評論家は、読みやすい上っ面のところだけを舐めてみて「粉っぽいな」と言っているに過ぎない。このクソ評論家を特定しようと思ったのだが、ここ1ヶ月くらいの間に読んだ新聞だったか雑誌だったか本だったか、すっかり失念してしまった。ムカッときた時に、この日記にメモっておかないといけない。反省反省。

 本題にもどしますね。若きワシャは『燃えよ剣』で男の、漢(おとこ)の人生を知った。土方歳三の潔い生き方を読んだ時点から、卑怯なことができなくなった。まさに一冊の本で生き様を変えてしまった。

 

 二冊目は20世紀の最後の年に手に取った『偽善系 やつらはヘンだ!』(文藝春秋)である。これは作家でジャーナリストの日垣隆さんの著作で、たまたま本屋で偶然手にしたのが切っ掛けとなった。

 ちょうどその頃、ワシャの同僚で飲み仲間だった悪友が出張先で死んだ。人生ってそんなものかと達観するような気持ちが湧いていた。だから、ワシャは凸凹商事の最前線にいたのだが、異動願いを出して文化関係の閑職に回してもらった。元々、歴史・文化・伝統などが好きだったから、そこで退職までの20年を過ごすのも悪くはないと思ったのである。

 しかし、日垣さんの著書と出会ってしまった。『偽善系』を読んだ途端に面白かったので、早速、日垣さんの過去の著作を手当たり次第に購入し読みまくった。そしてどの著作もが、それまで卑怯ではないが、ぼんやりと生きていたワシャに「喝!」を入れるものばかりだった。これほど一人の作家にのめり込むのは司馬遼太郎以来だった。

 日垣さんが、ワシャに「メディアリテラシー」を教えてくれた。今の「反朝日新聞」はここから構築されたと言っていい。また、仮説を裏付けるために「取材の重要性」を伝授してくれた。これは、その後の企画部門で大いに役立ったものである。そして「積極的に生きること」の大切さと、そのために「喧嘩をすること」の必要性を教示してもらった。気ちがいじみた読書の量も、日垣さん直伝で身に付いたものである。だってさ、日垣読書会の課題図書が10冊/1会なんて普通だったんだから。そんなので鍛えられて、読書が身に付いたとも言える。

偽善系』を手に取ってから、15年くらいのワシャの人生は、まさに日垣さんの影響を受け、模倣することに終始した。まずは「真似ぶ」だと思っていたからね。日垣さんがメルマガで「この財布がいい」というと、その財布を買い求め、以来、ずっとその財布を使っている。また、それまで尻のポケットに札入れを突っ込んで闊歩していたが、「格好悪いよ」という指摘で、尻のポケットから財布を鞄の中に移して、十数年経過している。これらは些末な例ではあるが、こういったものの蓄積が現在のワルシャワを形作っていると言っていい。

 駅前の書店が『偽善系』を置いてなかったら、今頃、ワシャは地元の歴史愛好会に所属する陶芸好きのオッサンになっていただろう。本との出会いはまことに恐ろしいものである。

虎の門事件

 大正12年というからかれこれ百年ほど前にことになる。12月27日、帝国議会の開院式に向かう摂政宮裕仁親王が狙撃されるという事件が起きた。犯人は「共産党万歳」を唱える無政府主義者であった。幸いにして弾丸は窓ガラスに穴をあけただけで摂政宮はご無事だった。そのまま開院式にも出席されたという。

 この事件の2年前に「コミンテルン日本支部準備会」が発足しており、アメリカの共産主義者らとの交流も頻繁に行われている。そんな時代の事件であった。

 

 ワシャは「コミンテルン」という胡散臭い集団が嫌いだ。それと交わって社会主義革命を起こそうという連中ももちろん嫌いだ。彼らにかかれば、日本の伝統や文化、歴史や風土は軒並み破壊され尽くすであろう。実例は、西の隣国を見れば実証されていますよね。チベットの伝統、文化、歴史、風土がいかに共産党と名乗る胡散臭い連中に蹂躙されていることか。付け加えておくと、そもそもナチスは「民族社会主義ドイツ労働者党」のことであって、共産主義の亜流なのである。そういった意味では、中国共産党も、朝鮮労働党も、民族社会主義ドイツ労働者党も同根であった。

 

 もし、この時に摂政宮に何かがあれば、おそらく後世の歴史は大きく変貌していたであろう。賢明な昭和天皇だったから、日本は滅亡の淵から甦った。昭和天皇のご聖断なくば、日本は泥沼の本土決戦に突入し、ソビエトの介入を許し、西日本国と東日本国の分割統治さえあり得た。

 

 百年前に摂政宮裕仁親王に銃弾を放った狂人がいた。そして、百年後、昭和天皇のご真影を焼くバカが蠢き出す。どの時代にもコレラ菌のような危痴害は微量だが存在する。防疫体制がしっかりしていればなんということはないのだが、一旦、それが破られて、かつこちら側の免疫力が落ちているとたちまち発病をする。

「あいちトリエンナーレ」で水際での防疫体制が破られて、今度は北海道に罹患してしまった。広島にも感染する可能性は高い。 

 北海道で「不自由展」系の展示会が1日だけ開かれた。「虎ノ門ニュース」でその状況を見たけれど、レベルの低さは尋常ではない。ネットにもその状況が拡散されているだろうから、皆さん自身で確認をしていただきたいが、高校の学園祭のほうがはるかにクオリティーが高く芸術性に富んでいる。

 

 表現の自由は死守しなければならない。しかし、共産主義無政府主義、暴力革命など危険思想に染まった「反天皇制運動連絡会」のごとき輩の活動はある程度の歯止めが必要だと思う。全国民中80人もの支持を受けている団体である(笑)。そのほとんどが高齢者であるという。この80人は毎回、「反体制」を叫びながら警察の保護を受けながらデモ行進をしているのだが、それはあまり格好のいいものではない。まぁどうでもいいと言えばどうでもいい団体なんだろうけど、これが「不自由展」に深く関わっている。県知事以外はまったく見向きもしないような活動に対して公費を投入する必要があるのだろうか。そして、こういった危険思想から第二の難波大助が現われないとも限らない。

「あいちトリエンナーレ」でじゃぶじゃぶと餌を与え、北海道の「不自由展」では公共施設を使わせるという栄養を与えてしまった。パンデミックしたらどないすんの?

令和元年最後の読書会

 昨日、読書会。課題図書は、松波信三郎『死の思索』(岩波新書)である。先月の23日に哲学講座があって、その時のテーマが「死」であった。というか「哲学」がそもそも「死ぬことを学ぶことである」とモンテーニュが言っているくらいだ。キケロだって「哲学とは死に備えることにほかならない」と言っているし、フィロソフィアは「心安らかに死ぬ稽古をする者」のことなんですね。

 だから哲学の講座に学ぶ=死ぬことを学ぶということに他ならない。そんなわけでワシャは先月末から「哲学」に目覚め、直後にあった読書会で『死の思索』を推薦したのだった。

 ワシャは最寄りの駅に午後6時過ぎに着いた。乗る電車は6時11分にやって来る。余裕だ。しかしホームで待っていてもいっこうに電車はやってこない。なんのこっちゃ。反対車線の快速も停まったまま出発しない。ホームで待たされている人がざわつき始めた頃、アナウンスが入った。

「只今、安城西岡崎間で、非常停止ボタンが押されましたので、安全確認を行っております。しばらくお待ちください」

 非常停止ボタンかいな、人身事故でなくてよかった。それにしても迷惑な話だ。結局、20分遅れで電車は動きはじめ、読書会の会場入りしたのは、やはり開始後20分を過ぎていた。

 そこでメンバーが気だるい雰囲気で待っていた。

「どうしたんじゃ?」と訊ねると、「哲学は難しくてよく解からない」と言われたのだった。確かに『死の思索』は岩波新書の「黄本」でちょいと難しい部類に入る。哲学慣れしていない人には少し歯ごたえがあるかもしれぬ。

 だからワシャは読書量の多いパセリくんにまず口火を切ってもらうことにした。もちろん彼は「読みにくかった」と言いながらも、『死の思索』の要点をきっちりと押さえていた。感想も問題点の洗い出しも的を射たものだった。モンテーニュの「自殺の是認」のところに触れてくれたので、そこから掘り込んでいって、「尊厳死」「安楽死」の話題にしたところ、皆が乗って来てくれてホッとしたのだった。

 ようやく盛り上がってきたところに、パヤパヤさんが到着し、「『死の思索』はどうでした?」と振ったところ「いい本でした!まさに私が普段考えていることが明確に書かれていて面白かったです」と言ってくれた。本の推薦者としては胸を撫で下ろしたのだった。

 そこからは遅れてきたパヤパヤさんが暴走を始めた。エロエロなことを『死の思索』 に絡めて、語る語る。普段はめったに自分のことを語ることもないのだろう。ここぞとばかりにパヤパヤ砲が炸裂した。

 死の思索をしながら、大爆笑の読書会となった。それもまた善し。

 

 読書会後、定例の反省会。ここでもパヤパヤさんの独演会で始まったが、酒の力を借りて他のメンバーが追いつき、楽しい夜は更けていったのであった。

ホッとした

 書店で『週刊ポスト』の1月3日/10日合併号の目次を見て驚いた。呉智英さんが復活していたのだ。ここ2回ばかり「ネットのバカ現実のバカ」が休載されていたので、「どないしたんどすえ」と心配しておりました。合併号の「特別編」の冒頭で《体調が回復しましたので連載を再開します。新年も御愛読下さい。》とご挨拶をされていたので「ホッとしたんどすえ」。

 どのような体調であったのかは知らないけれど、健筆はご健在であったので楽しく読ませていただきました。今回のお題は「数え年」と「満年齢」について、呆けたことを言っている論者たちを一刀のもとに切り捨てている。佐高信という「一刀両断」が好きな人もいたけれど、あれは右左関係なくなまくら刀でしたね。呉さんは切れ味鋭い正宗のような村正のような名刀である。

 もちろん速攻で『週刊ポスト』を買いました。けっしてグラビアネーチャンや《「EDに克つ」今、できることのすべて》が見たかったからではありませんぞ(笑)。

 

少子化加速、自然減50万人超に 働き方改革カギ》

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO53735710U9A221C1EA1000/

 2019年の推計で出生数が90万人割れとなる見通しとなった。これはえらいことですよ。人口が減るということは国力の減衰に直結する。日本を日本たらしめるためには、子供をどんどんと産まなければならない。でも、現在の国の仕組みでは、若いカップルが子供を産もうと思えないから困ったもんだ。

 作家の竹田恒泰さんが「出産したらお祝い金をど~んとあげればいい」と言っていたが、ワシャも賛成である。2人目以降の出産について、200万円でも400万円でもいい。3人目は500万円、4人目は1000万円でもいい。出産お祝い金事業である。予算は5兆円もあれば足りるだろう。子供が産まれれば産まれた瞬間から消費者になり、20年もすれば納税者になっていく。そのことを考えれば5兆円の先行投資など安い安い。日本の国家予算は一般会計100兆円、特別会計200兆円である。1.7%です。3万円の小遣いを貰っているお父さんなら、480円の出費ということになります。これが高いかどうか・・・。ワシャは充分にやり繰りできる金額だと思いますけどね。

保守?

今朝の朝日新聞オピニオン欄。大村愛知県知事のインタビューが大きく載っていた。お仲間の津田某もこの欄を担当しているようだから、完全なる左シフトと言っていい。冒頭の一文が振るっている(笑)。

《あいちトリエンナーレの企画展「表現の不自由展・その後」。中止と再開を決めた責任者は大村秀章・愛知県知事だった。展示中止を迫る勢力に日本国憲法を掲げて正面から反論し、いま、補助金の不交付を決めた文化庁に不服を申し出ている。保守を自任している政治家の目に、日本はどう映っているのか。》

 まず、ここにもいろいろな問題が横たわっている。昭和天皇御真影を焼き、それを踏みつけにする映像を流すことを、これを許した段階で「保守」ではないよね。明らかに日本の歴史、天皇家、文化伝統に対して冒涜をしている。これは「保守」を自任していたら、どんなことをしてでも止めなければならなかった。津田大介氏が、それを隠して知事に説明しているとしたなら、知事も被害者である。実際にワシャはそう思っている。そのことを素直に詫びて、そのま中止にしておけばそれで終わったことだった。しかし、負けず嫌いの大村知事、むきになって憲法21条なんかを持ち出してくるから収拾のつかない話になってしまった。

 大村知事が「保守」を標榜するのであれば、そもそもこの「表現の不自由展・その後」に関わってはいけなかった。深入りしてはいけなかったのだ。

 

 インタビュアーは訊く。「文化庁トリエンナーレへの補助金を不交付にしたが、どう感じたか?」。これに対して知事はこう答える。

《全くの想定外だったので驚きました。》

 想定外にしちゃダメだって。あの内容が白日の下に晒されたら、まともな担当者なら「これはまずい」と感じるし、そのことが申請書に網羅されていなければ「不採択」となっても当然だと感じなきゃ。とくに「保守」を自任しているのだから、「これはまずかった」と、まず反省するところに行きつかなければいけない。

《求められた手続きに従って補助を申請し、文化庁の審査委員会で審査されたうえで採択が決定していました。》

 求められた手続きに従って申請をした書類に虚偽があったんだから、採択は無効でしょ。

文化庁は我々の手続きに不備があったと言っていますが、いわれのないことです。》

 いわれがありましたよね。文化庁は日本の文化を守るお役所で、日本文化の中心には皇室という2000年にわたる伝統文化がある。これを芸術と称して破壊すること、毀損することが許される道理がなかろう。大多数の日本人が大切に思っている皇室を、足蹴にしている映像を見せられて「ああ、これが芸術だ」と思う危痴害はチュチェ思想に染まった奴だけだって。

 この下劣な映像を芸術だと称している奴らは、天安門広場習近平の映像を燃やしてみろよ、お前らが大好きな北朝鮮金正恩の写真を破いてみろよ。表現の自由が許されていない国で、独裁者に対して、そういった反動芸術を行うということは勇気のある行動だと思うが、日本という安全地帯で、ぜったいクレームをつけない皇室を対象にして、そういった映像を創るおぞましさはいかばかりであろうか。

 反天皇活動に名を連ねる小倉利丸氏、NHKで昭和天皇を戦犯として裁いた永田浩三氏、そしてチュチェ思想に染まった韓国政治家の腹心の岡本有佳氏、これに津田大介氏を加えたそうそうたる反日メンバーにトリエンナーレの一部門を委ねてしまった謝罪から入るべきではないだろうか。知事は、全体としての津田氏の功績を認めながらも《ただ批判を受けた映像作品については、開催前に僕に知らせてほしかった。》と言っている。

 え、知っていればこの映像作品は展示から外したの?とするなら知事の言われる憲法21条違反、事前検閲ということになりませんか?

 記者とのやりとりはこの後、世界の分断という突拍子もないところに飛んでいって、おいおいどこまで行っちゃうの~って感じで終わってしまう。

 重要なことは、小倉、永田、岡本、津田各氏がやったことは、反日プロパガンダであり、ある意味の「利敵行為」と言っていい。そこには言論の自由を認めてはいけないし、公費を入れることは絶対にダメでしょ。

 

 大村知事の地元で開催された支援者の会も前年と比べると大幅な減となっていたそうな。左傾化著しい新聞のインタビューに語るのではなく、真摯に足元を見つめ直したほうがいい。少なくとも「保守」を名乗るのであれば。

傾いたニュース

《北海道表現の自由と不自由展、札幌で開催》

https://www.asahi.com/articles/ASMDP6RX7MDPIIPE015.html

 おっと、こんなことをやっていたのか。チュチェ思想に染まった連中が反日プロパガンダを、公共機関で1日限りのゲリラ的テロ開催をしやあがった。

「道民有志らでつくる実行委員会」といっても必ずチュチェ思想信奉者の主導する反日グループなのである。内容を見れば明らかだ。「アイヌ民族の先住権を訴える展示」、「朝鮮女性が日本に連行されて遊郭で自殺をする一人芝居」、例の「少女売春婦像」、「東條英機を焼く映像」、「現役保守論客を焼く映像」などなど、「あいトリ」の「不自由展」同様に、芸術と呼べるようなものは何一つなく、反日活動を助長する方向性のものばかりが並べられていた。朝日新聞紙など一部のシンパのメディアには公開したが、一般人が情報を発信することは制限されている。これも、遣り口が「あいトリ」と同様で自らが表現の不自由を実践していることは棚に上げている。

 ただ心ある人はどこにでもいるもので、きっちりと、そのくだらない展示内容をツイッターなどで暴露してくれる。だからワシャらもテロ的展示の本質を知ることができるのである。

 前にも書いたけれど、チュチェ思想は左翼陣営の中に感染している。ここに注意をしていかないと、「文化」に名を借りた「洗脳」がまた悪化してしまう。

 

 作家の日垣隆さんがフェイスブックで、例の伊藤詩織氏についてコメントしていた。

「ジャーナリスト自らがニュースに敢えてなる場合、戦死以外、かなり怪しい」

 日垣さんは、世界じゅうの危険地帯に取材を敢行してきた。常々「自分がニュースになることだけは気をつけてきた」と言っておられたことを思い出した。

 伊藤氏は、自らの閨ごとをさらけ出して「ドキュメンタリー年間最優秀賞」を受賞した。ジャーナリストになりたくて仕方がなかった女性は、ついにジャーナリストとして認められたわけだ(笑)。ただし自らのネタでね。事実は男と女の密室内でのことで、なにが真実かは2人にしかわかるまい。なんら論証のできるものはなく、女性の告白がすべてのもの、告白本が、はたしてドキュメンタリーと呼べるのかどうか。

 その日垣さんの著作に『裁判官に気をつけろ!』(角川書店)という一冊がある。これは、『ブラックボックス』などと違って秀作なのだが、この中に今回の伊藤事件を予言するような記述がある。

 第5章の「裁判用語としての和姦と強姦」。

《合意(承諾)に基づく性交渉は、愛の形だとされています。しかし合意に基づかない性交渉は、犯罪です。》

 以下、過去の裁判事例を挙げられて、こと和姦か強姦かを判断する判決がいかにいい加減かを論証されている。

 第6章の「色恋沙汰と性犯罪のあいだ」では、

《女性が告訴するほどである以上は、それだけのことがあったと推定すべきであり容疑者を逮捕・起訴してもいい、という発想があり、これなら正しいと思ってしまう人も少なくないでしょうが、しかしこの発想こそが痴漢冤罪の温床になることは、知っておいていただきたいと思います。》

 と言われる。ワシャもまさにそう思う。とくに告訴した女性が「自分のことをニュースにしてでもジャーナリストになりたい」と山口氏のところに押しかけていた人物で、その支援者が傾いた方ばかりなので、さらに疑惑は広がっていくのである。