昨日、読書会。先月の『万葉秀歌』(岩波新書)からのつながりで、井上靖『額田女王』(新潮文庫)が課題図書だった。
先日の日記「井上靖」でもちょいと書いたけれど、ワシャはあまり井上靖に馴染まなかった。これはパセリくんも言っていたが、文章に面白味がなく盛り上がりに欠けているからかなぁ。断然に司馬とか池波のほうが読みごたえがあったと記憶している。
とはいえ『額田女王』は良かった。大化6年(650)から天武3年(673)までの23年間を、額田女王という一人の美女(古代基準でね)の関わりから描いた大河ドラマと言える。そういった意味では、「むしごうの人曾我は敗け」などと事項と年数だけ覚えて済ませてきた古代が、井上筆によって風景として立ち上がってくる。これは興味深かった。
古代というととても遠い昔のようだが、実はそこに生きている人々は今の人間と大して違わない、恋もすれば政治もする。利に走る者、己を貫く者などまったく今と違っていない。
例えば、東アジア外交にしても、中大兄皇子、大海人皇子の外交能力は、岸田・石破などとは比べ物にならないほど長けている。そして白村江への海軍出兵でも大きな判断力を見せて大唐帝国と戦っている。政治家としての度胸もキッシーゲルゲルとは大違いで、現在の盆暗は中大兄、大海人の足元にも及ぶまい。
井上の物語は年表どおりに進んでいく。大化6年(650)に白い雉が献上され年号が「白雉」と改められる。白雉3年(652)に戸籍制度がつくられ、白雉4年に遣唐使が派遣された。斉明4年(658)に先帝(孝徳)の息子の有間皇子が勢力争いにより刑死するのだが、そのあたりは1章を割いて語られている。
そしてこの辺りから物語はスケール感を増してくる。大和朝廷の朝鮮半島における権益の拠点である百済が滅亡した。このために半島利権を逃さないための出兵が議論された。結果、阿倍比羅夫を大将軍にして400隻の船団と兵を半島に送るのだが、白村江で敗北を喫してしまう。
この辺りの歴史を、額田女王と中大兄(天智)、大海人(天武)との三角関係なども織り交ぜながら語っていく。
それにしても、豊臣秀吉の朝鮮出兵に先んずること千年に全国から兵士を徴し、筑紫に水城(みずき)を建設して、半島の大唐帝国郡と一戦を交えるとは、いやはやスケールのでかい話になってきましたなぁ。読書会のメンバーもこのあたりが面白かったと言っていた。
さて、読書会で出た質問に「〈額田女王〉の〈額田〉というのは〈愛知県額田郡〉と関係があるのか?」というものがあって、その時には即答ができなかった。
でね、今調べているんだけど、額田女王の時代から25代前の応神天皇の皇子の中に「額田大中彦(ぬかたのおおなかつひこ)」がいる。この人の末裔なのかなぁ?
あるいは、元々「額田部」という帝に仕える部門の職名のひとつでもあって、彼女の先祖がその職についていたとか。
また大和の国に額田郷というところがあって、そこを押さえていた豪族の関わりから「額田女王」と名乗ったものだろうか?このあたりは解明されていないようだ。
愛知県の「額田郡」については、『地名語源辞典』(校倉書房)に依れば、「允恭天皇の時に家臣が薩摩から馬を連れて帰ってきた。その馬の額に田の巻毛があったことから〈額田〉の姓を与えた」とあるが、允恭は19代で、15代の応神の孫にあたる。前述の額田大中彦の甥にあたるので、允恭が伯父の名を知らぬわけはないのだが、このへんもよく分らない。どちらにしても遠い古代の頃からある呼称なので、共通する点は大いにあると思う。