本の選択

 いやはや昨日は忙しかった。昨日の午前3時30分、ワルシャワ一族の長老が階段(と言っても2段)から落っこちてしまった。前日には一族の墓所で彼岸祭をやっており、その時には杖をついてだが、子、孫、曾孫に矍鑠たるところを見せていたんですわ。

 それが未明にひっくり返って、一番近所に住んでいるワシャの家に連絡が入ったということ。だから取るものも取り合えず、駆け付けて状況を診た。額に血がにじんでいるのでここを打っている。首を動かそうとすると痛いらしく顔をしかめる。手足の動作も鈍い。これは彼岸の時とは違っている。「救急車を呼ぼう」ということにしたが、長老は「夜も明けぬうちからご近所を騒がしてはいけない。朝になったら掛かりつけの医者に往診を頼んでくれ」と言う。

 ううむ、意識も言葉もはっきりしているし、耳も聞こえている。熱もなく、顔色もいい。水分の補給もできた。本人も「ちょっと横になって休みたい」と言っているし・・・。

 とはいえ長老の寝室まで抱えてもどすのも大変だし、まず状態が分からないので、動かさない方がいいと判断した。だから長老の書斎の絨毯の上に発泡スチロールを敷いて、その上に2階の寝室から寝具を運び、そこで横にした。本人も首は痛そうだったが落ち着いた表情に戻ったので、ワシャは一旦、家に帰って再度身支度をした。

 夜が明けて、長老の示した医者の番号に電話を掛ける。出ない。そりゃそうだ、木曜日だから休診だ。医者本人の電話もどこかにあるらしいが、それは長老の私物の中に紛れていて、ワシャらが探せるものではない。

「首の痛みは強くなっている」と訴え、度々顔を顰めるので、これは素人が手を出せる範囲を超えていると判断して「119」に連絡をした。

 てなわけで、そのまま某総合病院の救急外来に行ったんですね。診断は「頸椎損傷」で、それが首の神経を圧迫し手足の動きを悪くしているというもの。もうそのまま入院でした。

 ただMRIやCTなどの検査や、高齢でもあるので、かなり慎重に診察が行われた。その間、救急外来用の待合があって、そこは病院本体の待合とは別で、人も少なくかなり静かだった。

 看護婦さんからは、「こちらでお待ちください」と言われた。こう言った時はおおむね時間がかかる。そんなこともあろうかと思って、ワシャはおもむろにバッグから時代小説の文庫本を取り出したのだった。

 でね、読み始めるんだけど、内容が頭に入ってこない。何度も同じページを読むのだけれど、人物の関係とか、どの人がどのセリフを言っているのかが、上手くつかめない。こんなことは普段はないのだけれど・・・。

 ということで、読書はあきらめてi-Padをいじり始めるのだった。

 

 夕方には入院手続きまで済ませ、自宅にもどることができた。ヘトヘトだったが、気になることがあったので、書庫に直行した。そこで病院で読もうとした時代小説を読み始めたのだが、スラスラ読めるではないか。なんじゃこれは。

「なぜ病院の待合で時代小説が読めなかったのか」

 この解を求めて調べましたぞ。

 そうしたら、平成18年に上梓された『斉藤孝の速読術』(筑摩書房)の中に見つけました。

《たとえばお風呂に入るときの本や寝る前に読む本、移動のときに読む本――といった具合に本をわけていきます。TPOと自分の体調や脳の状態に合わせて、本をセレクトしていくといろいろな本を同時並行でこなしていくことができます。》

 これだな。ワシャは周囲がうるさくても、読書にはまったく支障がない。例えば家族がミュージックステーションを見ていても、その横で『小津安二郎日記』(講談社)などを楽しめる。仕事で視察に行った時なども、名古屋から博多の新幹線で、新書を3冊くらいは読んだ。

 なるほど。いつ看護婦さんから次の指示が飛んでくるのか分からない状況で、物語がしっかり紡がれ、伏線なども複雑に編み込まれている小説に集中するのは難しかったんだな。

 途切れ途切れに読んでも問題ない笑い話集の『ウッドハウス・コレクション』(国書刊行会)や『ラ・ロシュフコー箴言集』(岩波文庫)を持って行けばよかった。