業の肯定

 いやはや、ワシャとしたことが情けない。日記ではなるべく「同じことを書かない」ということを心がけてきたつもりだった。ところが昨日の日記「柳田格之進」と似たような内容を6年前にまったく同じタイトルで取り上げていた。

 今回は立川生志の「柳田格之進」で、6年前は立川志の輔の「柳田格之進」。日記の構成も似ていて、なんだか6年前の日記を写して書いているような内容だった。本人としてはまったく忘れていたんですわ。友だちから「志の輔さんでも聴きましたよね」と言われて、日記を検索したら見つけたというお粗末。

 それでも6年でちいっとばかしワルシャワも進化した。6年前は志の輔の「業の肯定」が理解できずに、《ワシャ的にはしっかりと説明しきってハッピーエンドで幕にするほうが人情噺としてはいいと思う。》などとほざいておったのが、今回は、立川流の「武士の意地を通す」という「業」のために、「悲劇のまま終わる」という選択がツボにはまった。

 

 ここでちょいと「業の肯定」についての蘊蓄を、横丁の隠居のように語りたい(笑)。

 この言葉の初出は、昭和60年発行の、立川談志『あなたも落語家になれる』(三一書房)である。

 この言葉が出てくるのが、「まえがき」、「目次」のすぐ次、「序 落語って何んだ」の「1 人間の“業”」の冒頭である。

《落語とは、一口にいって「人間の業の肯定を前提とする一人(いちにん)芸である」といえる。》

 開口一番、談志はこう断じ、後段でこう説明する。

《“人間の業”の肯定とは、非常に抽象的ないい方ですが、具体的にいいますと、人間、本当に眠くなると“寝ちまうものなんだ”といっているのです。分別のある大(だい)の大人(おとな)が若い娘(こ)に惚れ、メロメロになることもよくあるし、飲んではいけないと解っていながら酒を飲み、“これだけはしてはいけない”ということをやってしまうものが、人間なのであります。》

 こういうことを肯定するのが落語だと談志は言っている。

 

 昨日、ワシャの業の「本を買いたくなる」に引っ張られて、駅前の本屋に立ち寄った。ワシャの業である「居酒屋で酒を飲む」まで、少しばかり時間があったからだ。

 何の気なしに、新刊本のところにあった山本一力の『落語小説集』(小学館時代小説文庫)を手に取った。そしたら、末尾の短編が『柳田格之進』だった。速攻で本を買い、居酒屋に行ったのだが、ワシャの業である「買ったらすぐに読みたくなる」に勝てず、ツレが来るまで居酒屋の片隅で読んだのでした。