今、歴史時代小説のブームか?

(昨日の続き)

 講師は言う。

《文壇デビューと「生前」全集の刊行――藤沢周平の「誕生」は、二つの時代の「終わり」に暗く彩られていたことになる。》

 二つの時代の「終わり」というのは「高度経済成長」と「バブル経済」の「終わり」のことである。藤沢周平のデビューは高度経済成長期が終焉する2年前の昭和46年(1971)。『藤沢周平全集』刊行がバブル崩壊の平成4年(1992)だから、時代の停滞を象徴する作家だと講師は言う。

 でね、司馬遼太郎のことにはあまり触れないので、ワシャが補足すると、藤沢より4つ年上の司馬遼太郎は、藤沢と比べるとデビューが早く、昭和33年に『白い歓喜天』でデビューを果たす。昭和35年には直木賞受賞、全集の刊行が昭和46年である。

 藤沢と比較すると、直木賞で12年、全集で21年先行している。

 別段、時間の差が作家の優劣、作品の良し悪しだとは思わないが、10~20年時代の差があると、作家が向き合うものは確実に違うだろう。

 とはいえ、時代が合致すれば、司馬に「江戸市井(しせい)もの」(※「市井」とは「まちなか、庶民の社会のこと)が書けたかというとそれは難しく、藤沢に「織田信長」や「坂本龍馬」を作品にできたかというと、これもいささか困難だとは思う。

 時代が作家をつくったとかではなく、たまたまその時代にフィットする作家が司馬であり、藤沢であったのではないか。

 講師の先生は、講義全体の雰囲気や内容をみる限り、司馬遼太郎よりも藤沢周平にシンパシーを持っていることは理解できた。その点で、司馬フリークのワシャとは、必然的に議論が対立をする(笑)。

 講師は「平成に入って時代小説ブームが藤沢を切っ掛けに始まった」と言う。

 いや、それは違うんではないでしょうか。池波正太郎という作家をお忘れか。

 池波は司馬と同年で、かつ昭和35年直木賞を取っている。昭和42年には『鬼平犯科帳』を書き始め、その後、『剣客商売』や『仕掛人・藤枝梅安』などを次々に発表している。これらの作品には「織田信長」も「坂本龍馬」も出てきません。江戸の市井の人々が丹念に描かれたものであり、この作品を読者は大歓迎をしたものである。その証拠に、これらはすべて映像化されて今でも国民に愛され続けているでしょ。

 だから時代小説ブームは、平成に入ってからではなく昭和の時代からずっと、連綿と継続しているもの、そう考える方が正解ではないでしょうか。

 

 もう少し講師の主張をみてみましょう。

《(バブル崩壊後)戦後に方向を与えていた「歴史」が停滞し(中略)これまでの華々しい「歴史」によりかからず、無名の人々の変わらない豊かな日々を称揚すること。従来の歴史小説でおなじみの派手な英雄豪傑武将譚は激減し、無名の人々の日々の喜怒哀楽を丹念にえがいた「江戸市井もの」が増えてくる。》

 う~ん、ちょっとそこのあたりにも疑問を生じる。吉川英治山岡荘八はすでに錆びてしまった感があるけれど、司馬遼太郎について言えば、今も書店の一角を占め人気作家であることは変わりがない。

 さらに言えば「無名の市井の人々」は、戦前に活躍した作家の岡本綺堂の『半七捕物帳』や、戦前・戦後に活躍した野村胡堂の『銭形平次』などにも数多登場している。

今回の講義の中にこの2人の名前が出てこなかったが、時代小説を語る時、このビッグネームは欠かせないのではないか?

 講師は、「市井もの」の代表として、山本周五郎藤沢周平を挙げている。それについてはワシャもまったく異存はない。このお二人の本もワシャの書庫にはずらりと並んでいるからね。

 歴史時代小説がおもしろいということでは講師にまったく同意するものであるが、ただ「江戸市井もの」がバブル崩壊後に、藤沢周平によって発展したという主張には納得がいかない。「江戸市井もの」の良さは、それこそ三遊亭円朝以降まったく色褪せず、日本人の心に流れ続けているものと確信すしている。

 文芸評論家の肩書も持つ講師は「歴史小説」と「時代小説」の意味づけ、位置づけにこだわっていたけれども、問題として掲げるべきは、そもそもの本離れ、活字離れをどうしていくかということではないだろうか?

 歴史時代小説のブームがまたきているとするのは結構な話だが、今の時代小説作家が小説を書くことだけで食っていけるのかどうか?

「時代小説」の地位向上を力説する講師は「通俗小説とか大衆小説と言うな!」、「髷物(まげもの)、ちゃんばら物と言うな!」と言っている。しかし、そんなことはどうでもいい。「歴史小説」でも「通俗小説」でも「大衆小説」でもいいから、「SNS」や「ネット」のくだらない情報より、「歴史時代小説」の広大な世界に若者たちの目を向けさせることが、重要ではないか。

 国民、とくに若者を活字の世界に戻すことができれば、この国のかたちがいい方向を向いていくと思っている。

 明治維新後の国際社会への台頭も、戦後の復興も、日本人の識字率、教養などが世界レベルで抜群に高かったからである。これが近年、低下の一途を辿っている。日本人が頭を使わない娯楽にばかり走っていることが懸念される。

「だから歴史小説、時代小説のブームの再来には期待をしたい」という結論だったらよかったのにね。

 講義後の質問では居並ぶ老人たちが手を挙げなかったので、図書館司書に促されてワシャが質問に立った。いろいろな思いがあったが、それは腹に収め、丁寧にお礼を述べた後、こう質問した。

「先生のお話にはいろいろな作家が出てきました。『名古屋から東京に移ってしまった城山三郎が名古屋人には人気のがない』という話をされましたが、現在、名古屋在住で時代小説作家をしておられる奥山景布子さんの名前が出てきませんでした。名古屋に残っている大切な作家なので先生から評価やコメントをいただけると幸いです」

 そうしたら講師は「奥山さんの存在は知っているが、その本は読んだことがない」と正直に吐露された。ワシャは驚いて、

「え?読んでないッスか??『葵の残葉』とか『たらふくつるてん』とかおもしろいのがあるんスよ」

と、畳み掛けてしまった。そうしたら講師は素直にこう答えた。

「今、お薦めいただきましたので、早速、読んでみたいと思います」

 少しばかり、左傾化が窺える講師ではあったが、「歴史時代小説」には柔軟な考え方を持っておられるようだ。

 ワシャのお薦めを読んでくれると言われたので、ワシャも講師が強く薦めた今村翔吾の『童の神』を読もうと思っている。ワシャはこのところ小説から離れており、恥ずかしながら今村翔吾をまったく読んでいません(反省)。

 講座が終了してから、個人的に話をしている時に、「今村は『一平二太郎』を合わせたような作家です」と講師が言われた。

『一平二太郎』って、藤沢周「平」、司馬遼「太郎」、池波正「太郎」ということですよね。すごい作家ということではないですか。よ~し、もう一度「時代小説」にアタックしてみるべい。

 ということで、「歴史時代小説」の講座は、とてもよい刺激になったのでした。

 

 今、ワシャのパソコンの横には『童の神』と、やはり今村翔吾の『てらこや青義堂』という文庫が置いてあるんですね。

「一平二太郎」に匹敵するのかどうか、これは楽しみだ。