哲学の勉強(その2)

 土曜日の名古屋某所での勉強会の後半は「呉智英のマンガ論」についてである。

 呉さんは『マンガ狂につける薬』(メディアファクトリー)シリーズを4冊と、『マンガ家になるには』(ぺりかん社)、『現代マンガの全体像』(情報センター出版局)などを出版している。

 残念ながら、昭和58年に上梓された『マンガ家になるには』だけは、ワシャの本棚になかった。悔しいので必ず手に入れるぞ。

 さて、呉智英の「マンガ論」である。講義は『現代マンガの全体像』巻末の「増補版へのあとがき」から始まる。

 ここで呉さんは《日本文化のうち、諸外国に見られないほど特異に発達した民族の遺産と言うべきものは、たった二つしかない。》と言われる。

 ほほう、民族の遺産ですか、ここでワシャは「能・狂言文楽・歌舞伎」などが脳裏に浮かんだが、すぐに否定されてしまった。

《それは、歌舞伎でもなく、茶の湯でもなく、和歌俳句でもなく、日本的経営学でもなく、天皇制でもない。》

 ありゃりゃ~、ワシャの好きな歌舞伎が、のっけに否定されてしまいました。

《日本の誇るべき文化の二つとは、第一に、膠着語の特性を生かし、表意文字表音文字を混用する漢字仮名まじり文、第二に、きわめて高度に発達した表現ジャンル、マンガである。》

 なるほど、漢字、ひらがな、カタカナ、ときにはアルファベットも使って、文章をつくる文化は世界に誇るべきものなんですね。

 そしてマンガ。こればっかりは現在世界に普及拡散されている日本のマンガの情況を見れば納得せざるを得ない。コミック系でもアメリカのものと比較してもマンガは抜きんでておもしろい。アニメでもパターン化されたディズニーのものよりも、日本のアニメの素晴らしさが評価されている。

 ワシャなんかただ漫然とマンガを見ていましたが、そう言われるとちょっと背筋を伸ばして読もうかなぁ・・・と思ったりしています。

 

 ちょっと話が外れますが、ワシャがこの日記で「支那」という国名を使っているのは、もちろん呉さんの影響です。「週刊ポスト」の連載の138回で「差別後の不可解」というところにも書いておられるんですが、《世界共通語である「支那」はそもそも差別後ではない》と言い切っている。左巻き活動家や日教組の影響がはなはだしくなる昭和40年代くらいまでは「支那蕎麦屋」が大きく看板を掲げて駅前でラーメンを売っていた。そのころまでは「差別」ではなかったのだ。

 また、ワシャはロシアを「ロシヤ」と書く。これも呉さんの影響ですね(笑)。呉さんは不必要な「言葉狩り」を嫌悪しておられたが、(自称)不詳の弟子のワルシャワも「すべからく言葉狩りなど廃すべし」と思っている。この「すべからく~~すべし」の使い方も呉さんの指摘から学んだ(エヘン)。

 そして呉さん、政治などにまったく興味を示すような方ではないが、「政治思想」については多くを語っている。例えば『ホントの話』(小学館)には「LGBT」にも絡みそうな、こんな発言をされている。

《「人間性解放の神話」は、幼女姦者の人間性も、幼女自身では気づかない幼女の人間性さえも、一般的・全面的に解放しないと気がすまないんです。フランス革命に始まるこの奇怪な神話は、東回りでロシヤに入って共産主義となり、西回りでアメリカに入って人権論になったわけです。私は、人権思想を「西回りの共産主義」と呼んでいます。》

 まさに自民党稲田朋美代議士らがこれの典型で、「西回りの共産主義」にどっぷりと浸かってしまったんですね(蔑)。

 事程左様に、呉智英という人物が書き残している文献には学ぶべき点が並んでいる。その勉強会に参加して、まだまだワシャの読み込み方が足りないことが理解でき、呉思想が血肉になっていなかった。

 よし、再度、呉文献を読み直し、呉さんが示された他の文献(例えば『ミリンダ王の問い』(東洋文庫)など)についても読むことにしよう。というか、今、目の前に『ミリンダ王の問い』全3巻があるんでけどね。

 

 その勉強会でご一緒した名古屋の方が会食の時に「朝は4時に起きてランニングに行っています」と言っておられた。ワシャはといえば、昨日も午前3時くらいまで本を読んでいた。ようやくワシャが寝付く頃に走り出しているとは!同じ年なのにすごい。

 会食も含めて有意義な勉強会だった。