哲学の勉強

 昨日、名古屋某所にて「呉智英の著作を読む」集いがあった。講師は文学博士の加藤博子先生。午後からみっちりと、評論家で封建主義者の呉智英さんの著作について多角的な解説をしてもらった。

 まずは、『つぎはぎ仏教入門』(筑摩書房)、『知的唯物論』(サンガ)を取り上げた。もちろんワシャの家の書庫には、付箋だらけの両書が収まっている。平成23年、24年出版で、どちらも速攻で購入して懸命に読んだ記憶がある。

 しっかりと読んだつもりなんだけど、改めて加藤先生の講義を受けると、「なるほど!」とか「そうだったのか!」というところが山ほどあって、「嗚呼、ワルシャワの読み込み方の甘いことよ」と再確認したのだった(泣)。

 呉さんは『つぎはぎ仏教入門』の「第三章 釈迦は何を覚り、何を説いたか」で「ミリンダ王の問い」の話をしている。そこも読んでいるはずなんだけど、「ミリンダ王」については、引っ掛からずに、そのまま読み過ごしてしまったようだ。

ミリンダ王」とは、紀元前2世紀後半、インド北西部を支配したギリシャ人であり、るインド・グリーク朝の王メナンドロス1世のこと。彼とインド仏教の比丘(僧)ナーガセーナ(那先)との問答を記録したもので、呉さんは、この問答を2つの点において関心を引くものと言っている。

 1点目は、《まだ小乗大乗分立に至らない時代である。つまり、夾雑物(きょうざつぶつ)が混じった後世の煩瑣(はんさ)な仏教とは違い、釈迦その人の直説がそれなりに記憶されていた時代である》こと。

 2点目は、《ミリンダ王の質問に見られる思考方法が我々になじみがある》ということを指摘し、それに続けて《明治以降西洋文明を受け入れて一世紀半を閲(けみ)した我々は、むしろギリシャの知識人(ミリンダ王)の抱く疑問に共感を覚えるのである。》と言われる。

 上記に「閲した」という言葉が出てきたけれども、これは普段はあまり使わない。ここで呉さんは、あえて「閲した」を使って、この漢字のもつ「閲覧する」「経験する」「書物を読む」という複合的な意味合いを明治以降の一世紀半に重ね、その結果の「現代人の宗教的劣化」を皮肉っておられるのか?

 呉さんの文章はとても読みやすい。難しいことをワシャら凡弟子にも解りやすく嚙み砕いて提示してくれる。そしていろいろなことを考える切っ掛けをもらうのである。

 呉さんは『つぎはぎ仏教入門』の補編の中で、ドイツ系イギリス人の宗教学者マックス・ミュラーのことに触れている。そして彼が始めたのが《信じると否とに関係なく宗教を客観的に研究する学問》の宗教学だった。この客観性が、呉さんのスタンスと一致したのでしょうね。

 加藤先生は、ミュラーの言葉を教えてくれた。

「一つの宗教しか知らないものは、宗教を何も知らないのである」

 というもの。

 ううむ、まさにその通りで、呉さんは自身を「非仏教信者」と言っていることからも、そういった立ち位置をキープしないと、宗教は語れない。

 だから、「唯一の信仰に一途な者は、宗教そのものを知らない」ということである。

 何ものも、視点が単一だと平面にしか見えない。視点が2つ以上あれば、対象物を立体的に見ることができるし、多くの情報を得ることができる。あるいは、複数のものを比較することで、物事の本質が見えてくる。

 カトリック信者であるミュラーが、客観的立場で宗教を研究する。仏教とカトリックを比較しながら考察を重ねることは有意義なものとなった。

 ここで、ワシャは加藤先生に質問をした。

「先生!日本人は昔から神道があり、その後、仏教が普及し、長く神道と仏教が併存してきました。あるいは土着の信仰などもあります。さらに、近現代では、初詣は神社に参り、結婚式は神父が司り、お盆は道教で、葬式は仏教なんていう状況ですが、日本人は宗教を知っている民族と言ってもいいでしょうか?」

 加藤先生は笑いながら「そうですね」と同意してくれた。う~む、やっぱり日本人は興味深いのう。

 その点で、一神教は極めて排他性の強い宗教と言える。キリスト教などはかなり緩やかな考え方になってきているが、イスラム教の排他性は連日のニュースからもよく判ると思う。

 加藤先生の講義を聴きつつ、多様な日本人の宗教観と一神教のそれは相容れないものだと感じた。

 ここまでが前半、後半は呉さんのマンガに関する著作を勉強したのだが、これはまたの機会にしておきます。

 講義は夕方には終わったが、その後も夕食をとりながらも話は続き、最終的にお開きになったのっは、開始から6時間後の午後8時だった。疲れたけど有意義な半日であった。