壬生の屯所である。それほど見るべきものがあるわけでもなく、3つ4つの部屋を巡ればそれだけのこと。しかし、北側の庭や部屋の拵(こしら)えを眺めていると、芹沢や近藤に想いを馳せることができ、人が少ないといい空間だと思うんだけど、この時は20人という団体さんだったので、やや風情に欠けたか。
表に出て、メンバーのひとりが「長屋門の前で記念写真を撮ろう」とやっぱり言い出した。ちょうど目の前に通りかかった黒いTシャツを着た若者(ワシャらと比べてね)に声をかけた。その若者はこころよくシャッターを押してくれた。そこまでは袖すり合うも他生の縁程度のことだったんだが、若者のTシャツのフロントを見ると、白くプリントされていたのは、なななんと、磔になっている鳥居強右衛門の図柄ではないかいな。遠く京洛の地で、東夷5人が、三河の荒夷の代表のような強右衛門に出会うとは思わなかった。
これで話が盛り上がったんですわ。5人と1人は壬生の屯所前で、三河武士、愛知の観光などについて語り合ったのだった。俳優のむろつよし似の男性は、一人旅で関東からやってきたとのこと。たまたま東名の新城サービスエリアでこのTシャツを購入したそうだが、それにこれほどオッサンたちが食いついてくるとは想像だにしなかったろう。
ひととき、とりとめもない雑談を交わし、ワシャらは北の四条通に向けて、むろ君は東の前川邸の方向に別れた。なにもないのも寂しいので、むろ君には「遼東の豕」とメモった紙片を渡しておいた(笑)。
四条通りに出る。そこから新選組は東に向かう。四条堀川をこえて油小路を北に折れる。南に行くと、新選組参謀の伊藤甲子太郎の殉難地なのだが、ワシャらは北に進んで三条通りをこえ御池通りを目指す。あの日はけっこう日差しも強く暑かったので、木陰の多い御池通りが歩きやすい。京都市役所を左に眺め、本能寺を右手に見て、高瀬川を渡るり右に折れる。木屋町通りである。木屋町では佐久間象山や桂小五郎の寓居跡、佐久間象山・大村益次郎遭難の碑などを確認しつつ、三条通にもどって西にちょいと行きますってえと、池田屋があるんですね。そこで夜席の予約をして、今度は東に向かい、三条大橋の手前まで歩を進める。三条大橋にはいろいろ思い入れがあるのだけれど、これからのスケジュールもあるので、断腸の思いで先斗町のほうに方向を変えた。まぁ先斗町に入れば入ったで楽しいんですがね(笑)。先斗町については、司馬遼太郎の『燃えよ剣』を引用したい。主人公はもちろん土方歳三である。
《木綿の皮色の羽織をぬぎ、くるくるとまるめて番所におうりこむと、先斗町の狭斜な軒下をあるきだした。狭い。芝居の花道ほどの両側に、茶屋の掛行燈が京格子を淡く照らし、はるか北にむかってならんで、むこう三条通の闇に融けている。》
これは夜景ですね。ワシャらは日中でしたから、先斗町の花道は外国人であふれていました。
先斗町を過ぎ四条に出る。高瀬川を渡ったすぐのところに、古高俊太郎邸跡がある。池田屋事件の発端をつくった志士の一人で、ここから壬生の屯所に連行され拷問を受けて自白をする。その場所を確認して、四条通を西に歩いて四条河原町で地下鉄に乗った。午後3時30分、5時間余を歩き続けたことになる。メンバーは地下鉄で九条駅までゆき、その近くのホテルへと入った。
ワシャはというと、京都駅にキャリーバッグを預けているので、皆と別れて、京都駅下車、タクシーでホテルに向かおうと思っていたのだが、何か所もあるタクシー乗り場は外国人が山のようになっている。これでは30分待っても乗れるかどうか。
じゃぁ歩こうということで、京都駅から九条まで思いキャリーケースを引いて行軍しましたがな(泣)。それでもなんとか午後4時にはホテルにチェックインできました。やれやれ、汗を流し一息ついて、もう一度、池田屋にゆく。その後にもお楽しみがあるのだが、すでに1600字を超えている。
夜のはちゃめちゃは明日のココロということで。
(京都人の密かな味 その3)