京都人の密かな味

 仲間と京都に出かけた。忙しいメンバーもいるんだけど、なんとか日程調整ができて、月・火と京都に遊んだ。

 京都には地理的に近いということもあり、それこそ何度も足を運んでいる。小学校時代の家族旅行、修学旅行、学生時代にも何度も訪れた。社会人になってふところに余裕ができるようになると、歴史が好きなこともあって(南座も好きだけど)、頻繁に上洛するものである。

 今回は「新選組ツアー」と銘打っての一泊二日の旅だった。基本的に新選組の足跡を、新選組同様に足を使って巡ろうというもので、京都駅を午前10時に出発した。

 まずは駅の目と鼻の先、西本願寺である。

 文久3年2月、東夷(あずまえびす)の浪士隊が洛外の壬生の農家に間借りをするところから、新選組の歴史が始まる。とはいえ、この時点では「新選組」ではなく、策士の清川八郎に踊らされる若い者たち程度のこと。

 この後、清川は江戸にもどり、芹沢鴨一派と近藤勇グループが壬生に残った。そこから様々は勢力争いを経て、芹沢を暗殺し、その一派を粛清したのである。その後、会津公から正式に「新選組」を拝命し、ここに近藤をトップとする武将集団が立ち上がるのである。

 それから1年半、副長の土方歳三の組織編制力もあって、大所帯にになった新選組は、手狭な壬生から西本願寺に屯所を移転する。

 これには幕府側の思惑があって、西本願寺門主長州藩と関係が強く、その牽制もあって西本願寺に無理やり新選組が入っていった。寺側としては、まことに迷惑な話だったと思うけれど、当時、京都で飛ぶ鳥を落とす勢いの新選組に四の五の言えば、鉄拳制裁されるのが落ちだった。

 ここでも土方という名参謀、ネゴシエーターの存在が光ったのである。なにしろ仏閣の境内で、軍事訓練や大砲をぶっ放したりするのだ。寺側としては一刻も早く別の場所に移転してほしく、莫大な立ち退き料を新選組にせしめられることになる。

 ちなみに、慶應3年6月に新選組は3つ目の屯所に移転した。場所は現在の塩小路堀川の交差点の周辺と言われている。西本願寺の南東の一角で、まさに目と鼻の先。大砲の音や、隊士たちの声なども届く距離といっていい。

 

 西本願寺北の門から出て、花屋町通りに出る。その通りを西に向かう。700mくらいで島原遊郭の大門に着く。大門はあるんですよ。でも、島原一角は、現在、住宅街になっていて、どこにも太夫も遊女もおりんせん。この「おりんせん」という遊女言葉は、江戸吉原のもので、島原では使っておりんせん。

 でもね、片鱗は残っていて、大門をくぐり、すぐの露地を北に上がると「輪違屋」があって昔の風情を醸している。浅田次郎の『輪違屋糸里』で有名になったでしょ。そこからさらに西に進むと「角屋(すみや)」がデ~ンと建っている。おおお、見事に残っているではないかいな。今しも、二階の窓から芹沢鴨が顔を出して、

「おお、土方君、こっちだこっちだ。はよう上がって来い」

と、大声が降ってきそうな・・・。

 たまたま通りかかった2人連れの観光客に記念写真のシャッターを押してもらいました。東夷が夜ごと騒いだ角屋の玄関にて、現代の東夷が神妙な面持ちで写真に納まる。これも一興。

 

 さてそこから、今度は北に向かって歩を進める。まさに壬生に駐屯している浪士組が、毎夜、通った道を歩く。角屋から300mほどで5条通りに達し、それを越えれば壬生である。5条通りから400mも行けば、壬生寺なのだが、この距離だと壬生の屯所から島原遊郭の灯りが見えたに違いない。これだけ近いと、そりゃ新選組の皆さん、せっせと通いますわなぁ(笑)。

 なまくらの現代の東夷でも、10分で壬生寺に着いてしまった。おおお、ご無沙汰しておりました。ここには近藤さんがいる。久々にご挨拶をしていきますか。

 ということで、壬生寺、八木邸の話は、また明日のココロで~。