「あつし」にネットの限界を見た

 10月の初旬に開催した読書会で、東京から参加してくれたYさんがお薦め本として紹介してくれたのが、野上弥生子海神丸』(岩波文庫)だった。残念ながら岩波文庫は絶版になっていて、地元の図書館に埼玉福祉会の大活字本があったので、それを借りて読んだ。
海神丸』、凄まじい作品だった。大正6年2月19日に発見された漂流船の出港から救助までの59日間と、横浜へ寄港するまでの幾日かの結びからなっている。短編である。しかし、カニバリズムをあつかった重い作品であった。岩波文庫も今は絶版となっているので、購入できるのは埼玉福祉会の3240円の大活字本だが、これはちとお高い。ホントに短編なので、お近くの図書館で探していただくほうがいい。筑摩書房の『現代日本文学全集28』に野上彌弥生子集があるので、そちらという手もある。ただしこれには文庫や埼玉版にある《『海神丸』後日物語》が掲載されていない。この後日譚がまたおもしろいのである。ぜひともこちらもお読みいただきたい。

 話の冒頭、登場人物たちの姿や役割が丁寧に描かれる。
《十七の三吉は、大阪風な、黒いあつしの上に三尺を締め、後甲板の船長室の隣りの小さな炊事場で、朝飯のしたくをしていた。》
 乗組員の中では最年少の三吉、のちのち重要な役割を演じる三吉の初出である。彼にどんな悲劇が襲ってくるのかは、読んだ後のお楽しみと言うことで。
 
 さて、今日の本題は、この文中に出てくる「あつし」である。上記の文章の流れからいって、着る物であることは間違いない。おそらく「厚し」かなぁ。大分の港を出たのが12月25日だから、しっかりと着込んでいないと、冬の海の寒さはただものではないからね。まだ読み始めて1、2ページのところだったので、イメージを固めてから小説の中に入っていったほうがいいと思った。そこでネットで「あつし」なるものを検索してみたんですわ。
 ところが、「あつし」と入力してみれば、EXILEのATSUSHIやら、ロンブーのあつし、ライフスタイルプロデューサーのAtsushiなどが検索されてきて、肝心の「大阪風な黒いあつし」はまったく出てこない。「大阪風な黒いあつし」で検索しても、EXILEのATSUSHIが出てくるばかりである。
 そこで『広辞苑』ですな。「あつし」を引くと、「厚子・厚司」で出ていた。《大阪地方で産出する厚くて丈夫な平地の木綿織物。紺無地か大名縞で、仕事着・はんてん・前掛けなどに用いられた。》とある。これならイメージが湧きますわなぁ。
広辞苑』でワシャのもやもやが数秒で解消した。机の左わきに置いてある『広辞苑』をペラペラとめくっただけである。しかし、膨大な情報の蓄積を誇るネット上ではおそらく10分掛かっても「あつし」で検索している限り「厚子・厚司」は出てくるまい。
 辞書で「厚司」が見つけられて、それで検索をかければ「厚司織」が出てくるが、これがアイヌで織られた布のことばかりで、大阪産の「あつし」ではないんですね。ネットのどこかにはあると思うのだけれど、有名は「ATSUSHI」や「あつし」に押しのけられて、検索が困難になっている。
 情報はネットに席巻されたと思っていたが、思わぬところに落とし穴があったようだ。もちろんネット情報の精度はもとより信頼していないから、つねに紙の文献にはあたるようにしているから、ワシャ的には大丈夫なんだけど。小説に出てくる単純な言葉か検索できないのには少々驚いたのであった。